書評

『三島由紀夫・昭和の迷宮』(新潮社)

  • 2017/07/16
三島由紀夫・昭和の迷宮 / 出口 裕弘
三島由紀夫・昭和の迷宮
  • 著者:出口 裕弘
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(228ページ)
  • ISBN-10:4104102032
  • ISBN-13:978-4104102037
内容紹介:
生涯をかけた転生譚四部作は、なぜ『暁の寺』で失墜したか?『沈める滝』はなぜ「女」を描いた傑作となったか?『葉隠』を、バタイユを、三島は実はどう読んでいたか?同時代を生きた著者が解く、死に到る迷宮の謎。
三島由紀夫が市谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げたとき、わたしは17歳だった。当時『新潮』の巻末に、彼が『豊饒の海』という小説を何年にもわたって連載していることは知っていたが、とりあえず単行本で出ている『暁の寺』までを読まなければいけないと思い、慌てて書店に駆け付けた記憶がある。夢中になって読み耽っている間に、最終巻『天人五衰』が刊行された。わたしを驚かせたのは、その主人公である贋者の転生者の安永透が、1970年代の時点でわたしとほとんど違わない年齢に設定されているという事実だった。透が破滅に至り、本多繁邦がこれまでの出来ごとのすべてが無であったと尼僧の聡子から宣言されるのは、時間軸でいえば作者が自死を遂げてから、さらに数年の後のことなのである。

フランス文学者であった出口裕弘の『天使扼殺者』を読んだのも、三島の死から何年かが経ってからのことだった。この長編小説のなかでは、作者をいくぶん戯画化した感のある主人公は、ある事情があって東京を避けパリに隠れ住んでいる。そこへ妙齢の美女が現われ、二人は奇妙な同棲を始めてしまう。彼女の夫は主人公とほぼ同年齢の小説家で、若くして脚光を浴びると、戦後の文壇でスターとして活躍してきたという設定だ。出奔した妻を探しにパリを訪れたこの小説家は、図らずも主人公と対決をする羽目になる。世界に天使が存在しているならば、天使を扼殺する者も存在しているはずだと、主人公は感慨に耽る。

痛快なまでに荒唐無稽な物語である。辛辣な会話が延々と続くこのピカレスク小説を読んだとき、わたしは氏が同時代人としての三島の軌跡に、デビュー当時から虎視眈々とした眼差しを向けていたことを知った。いや、思い出してみれば、氏は三島が晩年に絶賛したフランスの異端思想家、ジョルジュ・バタイユの翻訳者でもあったのだ。

『三島由紀夫・昭和の迷宮』は、氏が『天使扼殺者』から約30年の歳月を経て執筆された、三島由紀夫をめぐる論考である。その間に昭和という時代が平成となり、氏の周囲にあって三島と声高く談笑していた人々の多くが物故してしまった。こうした喩えは不謹慎かもしれないが、現在の筆者は『豊饒の海』の人物でいえば、三代の人物の転生を見届け、唯識論の奥義を極めた本多が、いよいよ四代目の探索にさしかかった年齢に達している。これは舶来の最新理論を安全地帯で振りかざし、評論家が功績を求めて書くたぐいの三島論ではない。生前の三島にバタイユを送りつけたのは、誰でもない出口氏本人であった。とにかく探求すべきものは今、探求しておかねばならない。書くべきものは今、書いておかねばならないという気迫が、読み進んでゆくうちに行間から滲み出てくるのがわかる。

『春の雪』がセピア色をした日露戦争の記念写真から始められていたように、この書物は氏と三島が幼い時分にともに読んだはずの、鈴木三重吉の子供向け『古事記』から語り起こされ、三島の奇妙な記憶違いの可能性を微かに残してプロローグを終える。それは、自分が誕生した瞬間の光景を鮮明に記憶していると宣言する『仮面の告白』の語り手への、間接的な批評であるといえるだろう。

当初の作者の意図では、『豊饒の海』は天使のような少年が老齢の本多を救済して、きわめて至福に満ちた結末を迎えるはずであったのに、なぜにあのように「途中であちらの石が落ち、こちらの壁面に亀裂が走りして」といった、寒々しい終わり方となってしまったのか。三島が最晩年に、あれほど嫌い抜いていた太宰治への共感をふと口にしてしまったのは、どのような意味であるのか。いや、そもそも彼は、あれほどの口吻で褒めちぎっていた『葉隠』に、国枝史郎に、そしてバタイユに、何を見ていたのだろうか。氏はこうした謎のひとつひとつを検証し、生涯をかけての同時代人に肉薄を試みてゆく。

三島の死ののち、「昭和」という年号を用いることに独特の歪みが生じるようになった。文芸批評において、昭和50年代とか、60年代を口にする人は、まずいない。70年代とか、80年代と、西暦でいうのが通例だろう。『仮面の告白』の作者は、みずからの死をもって「昭和」という年号に封印を施し、それを迷宮たらしめてしまった。本書はこの迷宮からひとたび逃れ出た者が、もう一度迷宮に向かおうとする勇気の証明であるかのように、わたしには思われる。

【この書評が収録されている書籍】
人間を守る読書  / 四方田 犬彦
人間を守る読書
  • 著者:四方田 犬彦
  • 出版社:文藝春秋
  • 装丁:新書(321ページ)
  • 発売日:2007-09-00
  • ISBN-10:4166605925
  • ISBN-13:978-4166605927
内容紹介:
古典からサブカルチャーまで、今日の日本人にとってヴィヴィッドであるべき書物約155冊を紹介。「決して情報に還元されることのない思考」のすばらしさを読者に提案する。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

三島由紀夫・昭和の迷宮 / 出口 裕弘
三島由紀夫・昭和の迷宮
  • 著者:出口 裕弘
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(228ページ)
  • ISBN-10:4104102032
  • ISBN-13:978-4104102037
内容紹介:
生涯をかけた転生譚四部作は、なぜ『暁の寺』で失墜したか?『沈める滝』はなぜ「女」を描いた傑作となったか?『葉隠』を、バタイユを、三島は実はどう読んでいたか?同時代を生きた著者が解く、死に到る迷宮の謎。

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初出メディア

波

波 2002年11月

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