コラム
黒木 登志夫『死ぬということ 医学的に、実務的に、文学的に』(中央公論新社)、ヘンリー・マーシュ『残された時間 脳外科医マーシュ、がんと生きる』(みすず書房)
一般化はできない自分のこと、個別性
この二つの書物はどちらも死に関するものだから、景気がいいとはいえない話だが、高齢化社会では適切な話題というべきであろう。死に対する見方は大きく二つあり、一つは個人を対象とし、とくに自分の死に関わって「死とはなにか」を考えるもの、もう一つは社会的に死を外側から客観的に見ようとする見方である。マーシュの作品は前者で、死に向かう自分の感慨を記し、黒木の作品は死を広く社会的な面から扱う。評者自身は若い時には、死を個人の死として考えることが多かったが、年齢を重ねるとともに、死は社会的概念だと思うようになった。社会的概念は概念が示す事象自体より社会的影響がはるかに大きく、社会を前提としなければ成立しない。現代の神経科学では喜怒哀楽も社会的概念とされる。死はたとえば人称変化する。一人称の死は自己の死で、これは実体験できない。その意味では「ない」と極論できる。二人称の死は親しい関係にある人の死で、死の影響は非常に強く感じられる。三人称なら赤の他人の死で自分には無関係という意味でやはり「ない」としてもいい。そう考えると死には二人称しかない。死が人称変化するということは、まさに社会的だということで、死というある特定の現象自体がそれが置かれた状況と無関係に独立して存在するわけではない。ロビンソン・クルーソーが孤島に生きる限りその生死はだれにも関係ない。つまり「ない」と同じなのである。
『死ぬということ』には「医学的に、実務的に、文学的に」という副題がついており、内容はその通りになっている。死ぬこと自体にはいわば内容がないので、死に至るまでの時期、とくに老年の生に話題が集中する。「理想の死はピンピンコロリならぬピンピンごろり」だとする黒木はがんや循環器疾患など死因となるべき要素について、医学的、実務的に詳しく記述し、わかりやすくするために具体的な症例を多く紹介する。死については情動すなわち感情面を無視できないので、折に触れて和歌や俳句を適宜引用して読者の理性と感情の釣り合いをとってくれる。全体としてよくバランスの取れた健康書というべきであり、世界最長寿国日本で読まれるにふさわしい作品であろう。老後を健康に過ごすことを目指す人たちのための優れた教科書になっていると思う。論旨が理屈っぽいので、わかりやすさを考慮してか多くの図表が入れられているが、本文なら読める程度の老眼の私は、図表の文字がほとんど読めなかった。真に読者の読みやすさに配慮するなら、図表はその中の文字が本文サイズになるまで拡大すべきではないか。
マーシュは英国の脳神経外科医で、自分が進行性の前立腺がんであると知った時から、残された人生について考え始める。大きく三部に分けられているが、ある一つの主題を取り上げて全体を通して追ったものではない。あちこちに立ち寄りながら散歩している感じで、老人には受け入れやすい書き方である。第三部では安楽死が議論されるが、それにはその章の初めの方で、すでに末期を予想し、同じく医師である友人に安楽死の助力を頼む電話をし、それを漏れ聞く妻が涙するという伏線が置かれている。自殺は英国では違法ではないのに、それを助けると違法になるのは納得がいかないとマーシュは論じる。日本でも事情は同じだと思うが、私自身はすでに傘寿に達する年齢で、がん治療を受けてもいるので、これは他人ごとではなく、自分の問題でもある。ただここでこの問題を論じたいとは思わない。死はそれぞれの人生の帰結であるから、それぞれの人のもので、そこに一般論は成立しないと私は思う。死のそうした本質的な個別性と、現代社会の野放図な情報化による一般化とがぶつかり合って、死の議論を面倒にする。生成AIがどういう答えをくれるか、聞いてみたい気もするけれど、なんだか馬鹿らしく思えてまだやってない。
人生という問題、さらには死の問題は、実際に起こるできごとであって、言葉や情報の問題ではない。がんの放射線治療の部屋から戻って、この原稿を書きながら、具体的に自分の死を考えると、想像し考える死と実際にやってくる実情の間には、とんでもないへだたりがあるような気がする。情報をいくら集積しても、実情には届かない。それは死に限らず、情報や概念、すなわち言葉一般について言えることであろう。自分の人生はできればその距離を詰めようという、ムダな試みの連続だったような気がする。そんなことは初めからわかりきっているだろうといわれそうだが、日暮れて道遠し、情報化社会とは何かとあらためて考えこむことになった。
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