選評

『海松(みる)』(新潮社)

  • 2017/09/22
海松 / 稲葉 真弓
海松
  • 著者:稲葉 真弓
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:ハードカバー(169ページ)
  • ISBN-10:4104709026
  • ISBN-13:978-4104709021
内容紹介:
舞台は、志摩半島の一角、小さな湾近くの傾斜地。そこに土地を買い、家を建て、改めて、自分と現実のすべてについて、新しい生の感覚を見出そうとして暮らす。場処を決めたのは、オスの雉。見… もっと読む
舞台は、志摩半島の一角、小さな湾近くの傾斜地。そこに土地を買い、家を建て、改めて、自分と現実のすべてについて、新しい生の感覚を見出そうとして暮らす。場処を決めたのは、オスの雉。見知らぬ道をタクシーで通りかかったとき、ふと、歩いている雉を見て、奇跡に出遭ったように、心がふるえた。家の棟上式で一本ずつ立つ柱に、主である木を私は持つのだ、と感動する。生死のはざまで自分の皮を脱ぐ、ヘビの抜け殻を拾ってうける暗示…。そんな、ある生活事始めといった光景が、弾みと生彩ある言葉で展開される、川端康成文学賞受賞作。

川端康成文学賞(第34回)

受賞作=稲葉真弓「海松」、田中慎弥「蛹」/他の候補作=池澤夏樹「ヘルシンキ」、森内俊雄「ジュニエ爺さんの馬車」、小林恭二「遁世記」、辻仁成「青春の末期」、大竹昭子「随時見学可」、玄侑宗久「Aデール」/他の選考委員=秋山駿、小川国夫、津島佑子、村田喜代子/主催=川端康成記念会/発表=「新潮」二〇〇八年六月号

小説的時空間の創出

『海松』(稲葉真弓)の語り手である私は、深酒つづきの不健康な毎日を送る四十代後半の独身女性だ。食べるために編集やライターの仕事をしているが、〈案じたところで先行きが明るくなるわけではない〉と、半ばなげやりに時をやりすごしている。その私が、正月休みに、志摩半島の小さな湾にのぞむ急斜面の家で十日ほど滞在する。家は私の持ちもの、この十年間、年に何度か愛猫を伴ってここへやってくるのだ。遠景で隣町の八十代の老女の行方不明事件が起こり、それが私の方へゆっくりと「心理的に」近づいてくるが、老女は老いの象徴だろう(たぶん、そうだ)。

この遠景のせいか、今回の滞在で私は、家のまわりの樹木や草花や小動物や鳥や星空がはっきり見えてくる。「はっきり見えてくる」のであるから、家のまわりについての描写は(あたかも初めて見ましたとでもいうように)新鮮で正確なものでなければならないが、読者の期待は十分に充たされる。光る比喩をちりばめた正確で細密な描写が、魔法のように「失われた時間」を浮かび上がらせ、それにつれて〈時は逝く〉という人生の真実が現われてくる。静かな戦慄が、そこにはあった。

『蛹』(田中慎弥)は、暗い地中で、やがて地上の光の世界で王となる未来を夢見ている虫けらの生活と意見を、徹底した擬人法で、しかも細密に書いた傑作である。

木の下に産み落とされたかぶと虫の卵が、殻を破って幼虫になりさらに蛹になって〈地中にはない白くて大きな〉光の世界へ、地上へ出るその寸前までを、格調高く、いかめしく綴ったこの手法、つまりちっぽけな虫けらの生活と意見に堂々たる文章を与えた手法の効果は抜群で、いたるところに良質の諧謔が爆発する。ダンテの神曲地獄篇やオイデプス王やハムレット王子をかすかに連想させる趣向にも唸ったが、この虫けらが神(大自然)を直感し、時間を発見するくだりでは大いに笑った。〈時よ来たれ〉という主題にからめて、神学や哲学までも玩具にしたところなどはじつに骨太で愉快な作品である。

ことばによって時間と空間をかたく結びつけて、小説的時空間を創出することに、受賞作はともに成功しているとおもう。

【この選評が収録されている書籍】
井上ひさし全選評 / 井上 ひさし
井上ひさし全選評
  • 著者:井上 ひさし
  • 出版社:白水社
  • 装丁:単行本(821ページ)
  • 発売日:2010-02-01
  • ISBN-10:4560080380
  • ISBN-13:978-4560080382
内容紹介:
2009年までの36年間、延べ370余にわたる選考会に出席。白熱の全選評が浮き彫りにする、文学・演劇の新たな成果。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

海松 / 稲葉 真弓
海松
  • 著者:稲葉 真弓
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:ハードカバー(169ページ)
  • ISBN-10:4104709026
  • ISBN-13:978-4104709021
内容紹介:
舞台は、志摩半島の一角、小さな湾近くの傾斜地。そこに土地を買い、家を建て、改めて、自分と現実のすべてについて、新しい生の感覚を見出そうとして暮らす。場処を決めたのは、オスの雉。見… もっと読む
舞台は、志摩半島の一角、小さな湾近くの傾斜地。そこに土地を買い、家を建て、改めて、自分と現実のすべてについて、新しい生の感覚を見出そうとして暮らす。場処を決めたのは、オスの雉。見知らぬ道をタクシーで通りかかったとき、ふと、歩いている雉を見て、奇跡に出遭ったように、心がふるえた。家の棟上式で一本ずつ立つ柱に、主である木を私は持つのだ、と感動する。生死のはざまで自分の皮を脱ぐ、ヘビの抜け殻を拾ってうける暗示…。そんな、ある生活事始めといった光景が、弾みと生彩ある言葉で展開される、川端康成文学賞受賞作。

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初出メディア

新潮

新潮 2008年6月

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