「家の物語」の集積が文化の奥行き
平べったい丸缶を開けると、ころころの三角飴(あめ)。梅ぼ志、抹茶、黒。わたしはこっくりした味の黒飴がいちばん好きだった。祖母からひとつぶもらってだいじに舐(な)め、舌のうえで紙みたいに薄く溶かすのもうれしかった。なつかしいな。その飴は安政四(一八五七)年創業「榮太樓」が南蛮渡来の有平糖に工夫を凝らしてつくったもの。明治期には甘納豆の元祖「甘名納糖」、山葵(わさび)をつかう生菓子「玉だれ」、斬新なヒット作をつづけて世に送りだした。
飴にはじまる「榮太樓」の味を探ろうと本書を手にとったのだが、すぐ気づいた。これは家業の菓子屋を継いできた日本の「家の物語」だ。
一軒それぞれ、どんな家にも紡ぎだされた歴史があり、物語がある。そのおびただしい物語の集積こそ、日本という国の文化の奥行きではないか。
わずか間口一間、一・五坪の菓子屋を日本橋西河岸に興した細田家を支えてきたのは、こと細かな商いの流儀だ。お客の心理を読んだ売り切れ御免の販売。小僧や職人が働くようす。のれん分けの実体……商いの記録から明治・大正・昭和の日本のすがたが浮上する。
筆者は「榮太樓」6代目、その母の生前の言葉も目をひく。
「昭和初め、三越さんの本店完成のお祝いのときは、確か富士山の模様の羊羹(ようかん)とお菓子の三つ盛(もり)を納めたように思いますが、数が多くて三日も徹夜。小僧たちが眠たがって、穀倉へ行ったら、オヤッと思ったら俵が動くざんしょ。隠れて桟俵(さんだわら)をかぶって寝てましたの(笑)」
さすがの差配ぶり。商家を陰で支えたのは、できる女将(おかみ)さんなのだった。また、昭和前期まで「榮太樓」では東京でただ一軒、十七を迎えた年季中の小僧のために元服式をおこなっていたというから驚く。それは、律して家をひとつに束ね、看板の継承をはかる堅実な努力だったのだろう。老舗(しにせ)を育てる日本の商いの妙諦(みょうてい)をかいまみる。
飴ひとつぶ、「百年間がんこの三角」。ほんの「おつまみ噺(ばなし)」と謙遜(けんそん)してみせるが、いやいやなかなかどうして。