経済思想史、転換の影で「小悪魔」が暗躍
経済思想史には歴代の経済学者が名を連ねているが、では何をきっかけとして主軸理論は覆り、新理論にとって代わられるのか。ケインズ理論の場合、長い好況に浮かれるアメリカを襲った大恐慌の後に登場し、一世を風靡した。転換点は恐慌やインフレといった経済現象がもたらしたかに見える。
けれども提唱者の人柄や側近による宣伝も見逃せない。本書は一介の教員夫人であったJ・ロビンソン(1903~1983年)が国際的な名声を得てJ・M・ケインズ(1883~1946年)の側近に成り上がるまでを、膨大な書簡で描く伝記である。標的を狙って外さない巧みなキャリア形成戦略が私信で明かされ、聖女のごとく称えられてきた女性の素顔が露わになる。
驚くのは、ロビンソンが登場してからの年月の短さである。彼女は1930年にはケンブリッジ大学の新任教員オースティンの妻でしかなかった。それが経済学の勉強を本格的に始めると3年後には歴史的名著『不完全競争の経済学』を出版、ケインズが『一般理論』をまとめるに当たってはコメントする役割を摑み取り、翌1937年にはその解説書と入門書を続けて出版、「ケインズ革命」を演出している。
ケインズは「この世で一番むずかしいのは新しい考えを受け入れることではなく、古い考えを忘れることだ」(『雇用・利子および貨幣の一般理論』1936年)と語った。なるほどケインズの前著『貨幣論』(1930年)を完膚なきまでにやりこめたF・A・ハイエクの元からは、若手学者たちが「新しい考え」へと雪崩を打って逃散した。
しかしケインズは、ケンブリッジ大学における同僚の「古典派」経済学者たちを説得するには至らなかった。兄弟子のA・C・ピグーからは雑誌書評で痛烈に批判されたし、ピグーの弟子でかつては思いやり溢れる聞き手だったD・ロバートソンはロンドン大学へと去っていった。側近となったロビンソンの攻撃性と熱狂ぶりにいたたまれなくなったのだ。平穏な男性社会が突如現れた猛女によりかき乱されるさまが、精緻に描き出されている。
1920年代のケンブリッジは性差別的な学問環境にあり、女子学生は学位を取得できず、事務職まで女性を排除するイギリス唯一の大学だった。教員は大学内のカレッジに住み込み、談話室で個人指導し、お気に入りの学生に声をかけて週末の朝食やアフタヌーン・ティー、遠足にまで誘い出して、討議し続ける同性愛的な気風があった。その中で、立場は批判しても人物は批判しないというリベラルな人間関係が培われた。そこに乗り込んできたのが「小悪魔」で「極悪非道」なロビンソンだった。
彼女は1930年当時、学生に経済学を教える私設教師だった。ところがP・スラッファの講義を聴講して「不完全競争」に未開拓の領域があると知り、夫のオースティン、ケインズの愛弟子R・カーンと3人の勉強会を開始する。カーンの部屋で2人でも会い、数学の手ほどきや未公刊のアイデアをもらい受け、「向こう見ずな情事」にまで突き進む。「僕は君のためなら何でもする」と口走る二つ下の男を手玉に取り、やがて単独で渡米したカーンは、刊行直前だったロビンソンの『不完全競争の経済学』をハーバード大学でJ・A・シュンペーターに絶賛させている。また類似したテーマで先に『独占的競争の理論』を出版していたE・チェンバリンからは、討論会で「限界収入曲線」につき理解していない趣旨の発言を引き出して、業績の優先権はロビンソンにあることを立証してみせた。さながら忠犬である。
さらにロビンソンは不完全競争の理論には興味を見せなかったケインズに狙いを移すと、『貨幣論』を精読、カーンに仲介を依頼して接近を図った。1935年にケンブリッジ大学の常勤の助講師に採用されると、『一般理論』の貨幣理論を自分が講じることを教授会に提案する。対立する古典派のロバートソンも貨幣理論を受け持っており、二つの授業を行き来する学生の手前もあって、内心では荒唐無稽と感じていたケインズの「新しい考え」につき旗幟を鮮明にするよう追い詰められた。見解の違いではたもとを分かたないという学術共同体の結びつきが、「態度の悪い一人の女性の過剰な野望」に引き裂かれたのである。
ロビンソンの戦略は『一般理論』を教科書的「真理」とみなし、経済理論を知らない若い世代に刷り込むことであった。結果は功を奏し、ケインズはロビンソンを腹心として重用していく。出版後、ケインズ革命は世界に拡がっていった。
ただしケインズが心までも許したわけではない。激論しながらも仲が良かったハイエクは、回想記『ハイエク、ハイエクを語る』(名古屋大学出版会)でこう語っている。