講談社エッセイ賞(第22回)
受賞作=野崎歓「赤ちゃん教育」、福田和也「悪女の美食術」/他の選考委員=東海林さだお、坪内祐三、林真理子/主催=講談社/発表=「小説現代」二〇〇六年十一月号この二作
群れて食べるのは下品、他人を侵害しないことが食卓マナーの基本、寿司店で符丁を使うのは禁物などなど、福田和也さんの『悪女の美食術』に盛られた諸心得はだらしなく飽食に耽っているわたしたちの心臓と胃袋とを鋭く突き刺す。小さなときから食べることに元手をかけてきた著者はこれまでに貯えた知識と体験を総ざらいして、そうした方がおいしく食べられますよと囁いてくれているので、これらの諸心得は読み手の心にすなおに入ってくる。とても気分がいい。偉いのは、何事も基本から考えて行こうという著者の態度で、そこからフランス料理の歴史そのものが浮かび上がってきたりするから教養書としても値打ちがある。読みながら何度も吹き出したが(たとえば「小川軒問題」)、そのあたりには正義と微笑とでつくられたユーモア感覚が横溢している。ワインに比べて日本酒の記述に乏しいが、それはたぶん次の一冊にとってあるのだろう。一人のフランス文学者が、わが子の誕生と成育を文学を援用しながら語ったのが『赤ちゃん教育』、いってみればこれは著者野崎歓さんの文学アンソロジー的育児日記である。この世で臭いものは、糠味噌とわが子を語るときの親の口ぶりと相場が決まっているが、その臭みを『機関車トーマス』からサルトルの自伝『言葉』にいたる約三十編からの引用がみごとに消し去る。引用文に寄り添いながら著者は、父親になったことを誇ってみたり、やっぱりダメ父だと卑下してみたり、ありとあらゆる技巧を駆使して、いつの間にか個の事情を普遍の問題へと高めて行く。それにつれて読み手には野崎家が我が家のように思われてきて、野崎さんの坊やがわが子のように見えてくるから不思議だ。こうして読み手の胸はさわやかな感動で満たされる。この高度で洒脱な文学的曲芸には脱帽するしかない。
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