映画と小説に通底する砂田麻美の視線
すばらしい小説に出合ったときは、小説のなかに流れている時間を手放したくなくて、読み終わったあとの時間が長く続く。それが余韻というものなのだろうけれど、冷静な言葉をあてがうと何かが違ってしまう。皮膚のすぐ下がざわめいて、いつまでもふつふつと泡立っている実感をずっと掴(つか)んでいたくなる。『一瞬の雲の切れ間に』を読み終わったときも、そこからあとが長かった。今も、涙が溢(あふ)れて止まらなくなった気持ちのままでいる。
幼い生命を奪った、ある痛ましい事故。偶然がもたらした不幸な事故に関わりをもつ五人の人物を、おのおのに焦点を当てて描く連作短編である。著者、砂田麻美は一作目の映画「エンディングノート」で、映画監督としての存在感を知らしめた。主人公は自身の父。肉親の死を真正面から見据えた異色のドキュメンタリー映画は、やはり今なお忘れがたい。砂田麻美の眼差(まなざ)しは温かく優しいが、しかし、人間の真実を見通そうとする鋼の強靱(きようじん)さがあった。そして、小説にもまた同様の視線が通底している。映画と小説、異なる表現でありながら、いずれも繋(つな)ぎ合わせる手腕にひとつの奇跡をみる思いがする。
事故の加害者、健二と不倫関係にある千恵子。車の運転を妻に代わらせたために起こった事故だったと打ち明けられたときの、千恵子の心理描写。
その時の健二さんの顔は、これで一生彼女と人生をともにすることになるのだという、得体の知れない恐怖と覚悟に満ちていた。私はそんな彼の顔を見るのが新鮮で、怖くて、なぜだか苦しくなるほど、それを愛おしいと思った。
ひとの感情に潜むホラーじみた狂気。いっぽう、この平凡な現実感もまた真実なのだ。
健二さんともう会えないという事実よりも、残された私に続いていく日常がこんなにも退屈なのだという現実を、どうやって受け入れていけばいいのだろう。
狂気と凡庸、その両方を抱えてひとは日常を生きている。日常とは、きっとそのようなものであるのだろう。ずれたり重なり合ったりしながら、私たちは日常を生きている、生きてゆく。
五人の存在が複雑な共振をともなって、読む者の心に侵入してくる。千恵子。健二。健二の妻。我が子の生命を奪われた母親。まったくの偶然に導かれて事故現場に居合わせたひとりの男−−立場も思いも状況も、何もかも異なる人物の内面が、甕(かめ)のなかの水を覗(のぞ)き込むように静かに語られる。ストーリーに奇抜さはない。しかし、水面の奥に生の真実が宿っていることを、著者は知り抜いている。その眼差しの確かさが尊い。
物語のラスト、直前まで打ち棄てられていたある「もの」に息が吹きこまれ、希望の光に収斂(しゆうれん)させる手つきはあまりに見事だ。私はいまもざわめいている。