書評
『堅気の哲学―福田定良遺稿集』(藍書房)
えらぶらず、ぎりぎりまで考える
哲学の言葉というのは、なんだかえらそうにしている。やたら大上段に構えたり、だれにも見えていないものを見えるようにすると見得(みえ)を切ったり、まるで検問官のように、根源性とか深さ、厳密性とか不変といったものさしで他の知のいとなみをねちねち問い詰めたり。この「大哲学」に一貫して反旗を翻したのが福田定良だった。ひとびとが暮らしのなかでつきあたっている問題から始める。概念を振りかざすのでなく、ともに言葉を探しながら、考えの道筋を見つけてゆく。今でいう「哲学カフェ」のような小さな運動を、会社員や主婦とともに進めてきた。その福田は晩年、籐椅子(とういす)にもたれ、菓子折りの蓋(ふた)の上に葉書(はがき)大に切った紙片をのせ、それこそ小さな字でライフワーク「チイ哲」(ちいさな哲学)について綴(つづ)っていた。
それにしても「堅気」とはまた古めかしい表現だ。国民でも平民でも人民でも民衆でもなく、堅気。これを選んだのは、支配という関係から切れているから。ここには、生きるのに不可欠のものを作る仕事が堅気であり、まともな仕事をしているという感覚のほうが正義云々(うんぬん)より大事であり、知らぬまに「日本」とか「人類」といった大きな共同体の一員としてのワレワレになりすましてはならぬ、という矜持(きょうじ)が滲(にじ)む。
堅気とはいえそれは無垢(むく)な存在ではなく、堅気でない「その筋の人」を内から生みだし、利用し、ときに国家のため、会社のためと称してそれに成り上がり(下がり?)もする。
そこで福田は「チイ哲」が見習うべき表現の作法として、落語をとりあげる。落語家は、まずは笑われる存在なのだが、堅気をおかしく描写することで客(=堅気)が堅気を笑う場面を作りだす。どこか身に覚えのあるおかしみに浸されているうちに、客は笑う自分が笑われている当の者であることに気づく。落語家とは、堅気の自己批評を仲立ちする芸人のことであり、その芸のなかで、堅気と芸人のあいだの差別−被差別の関係もおのずから消滅してゆく。
復員船のなかで、叛乱(はんらん)する工員と兵隊のあいだをとりなした自身の体験を反芻(はんすう)するくだりは、ちょっと痛い。「事態を収拾する」ことじたいが支配意識から発するものでなかったかという反問。ここから、法であれ教育であれ「すべし」という語りが生まれるところにはつねに支配の意識が忍び込むという強烈な自己批評が生まれる。が、この批評は、消費者におもねる現代の社会そのものにも向かう。堅気の仕事が「より気楽な仕事・カネのもうかる仕事」に脅かされ、批評を事とするはずのメディアも「もっとオモシロク」という欲望に呑(の)み込まれるのだから。
堅気をそのいいかげんさも含めてサポートするために、哲学を哲学でなくなるぎりぎりのところにまで引っぱっていったこの試み、鶴見俊輔にならって、「限界哲学」と呼んでみたい。
朝日新聞 2005年3月20日
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