書評

『ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム』(水声社)

  • 2018/04/14
ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム ) / ジャン=フランソワ・リオタール
ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム )
  • 著者:ジャン=フランソワ・リオタール
  • 出版社:水声社
  • 装丁:単行本(232ページ)
  • 発売日:1989-06-01
  • ISBN:4891761598
内容紹介:
主体、自由、解放、革命といったあらゆる《大きな物語》が解体しつくした今日のポスト工業化社会の状況を、ウィトゲンシュタインの《言語ゲーム》の概念を用いて分析する、ポスト構造主義の旗手による極北的ポスト・モダン論。
ふつう「物語」と呼ばれているものには、およそふたつの特徴がある。ひとつは話し言葉か書き言葉の言語行為が関与していることだ。もうひとつは大なり小なり発端があり、経過があり、山場があり、終結があることだ。この本はこのふたつの「物語」の特徴を、科学、技術、哲学、政治など、ほとんど〈知〉が関与する文化と文明のすべての領域にまで拡張してみせている。そして、その上で西欧型の先進的な資本主義社会が燗熟期に達した以後の時期(つまり現在と呼ぶもの)に、これらのすべての領域で、「物語」は不信感にさらされ、崩壊しつつあることを、その条件をあげながら考察している。

まず「物語」がはじめに崩壊の徴候にさらされたのは、「物語」の概念から人間形成が分離したことだ。主人公が旅に出て、さまざまな困難に出あい、それとたたかい、それを克服して目出たし目出たしで終りになる筋立てから、人間の匂いが、まず取り払われるようになった。「経験」や「知識」を蓄積することは、精神や人格がどう作られるかとはまったく関わりなくできることになった。それがもっとすすんでゆくと、「知識」や「経験」は、商品として売れ、消費されるから、はじめて生産されるようになる。そしてこの段階までくると国家が「知識」や「経験」の生産力と生産量をコントロールするための管理力として登場する。近代の帝国主義時代のはじめには、領土、産業原料、労働力を獲得するために国家と国家が争ったり、戦争が始まったりしたのだが、現在のポスト・モダン時代には「知識」や「経験」、その伝達装置を獲得するために競争し、もしかするとそのために、それを使った戦争をはじめたりするようになる。

ところでこういう競争や戦争で、つぎつぎ発達させられた科学技術は、ますます高度な伝達装置(情報化装置)を産出するために、国家の管理能力の限界を突破して、多国籍的な産業化をおしすすめることになってゆく。そして近代国家の支配者は、中央政府や自治体の国家の政治官僚だったのにたいし、ポスト・モダン時代の現在では「知識」と「経験」の情報を自由に世界的に入手し、す早く計画を決定できる企業家、専門官僚、組合、教育、宗教団体の指導者たちの連合体にとってかわることになってゆく。

ポスト・モダンの現在に入って、どうしても考察されるべき重要な課題がある。この本はその所在を指摘している。科学技術は、はじめは人間の感覚や身体力を補整するものとして発生してきたのだが、だんだん高度にシステム化されるにつれて、それ自体の自己目的と自己原則をもつようになり、ひたすら小さなインプット(消費エネルギー)で大きなアウトプット(情報量)を得ようとする「遂行の最適化の原則」の衝動から展開され、本来「物語」の主人公であるべき人間社会の最適の自由度と一致するかどうかは、二の次になってゆく。この分裂は避けられなくなった。これを数学の定理ふうに言い直してみれば、システム化されてしまった高度技術社会では、ポスト・モダンの条件の下でよりよい目的を成就するために行われる科学技術の「遂行性の改良」が、実行の過程で「遂行性を低下」させるという自己矛盾と非一貫性としてあらわれることになる。そこに現在のポスト・モダン時代の科学技術、いいかえれば科学的な〈知〉のかかえているおおきな、根本的な課題があり、丁度、自然数論におけるゲーデルの定理はそれとおなじ象徴とみなすことができる。

ところでこの本の著者の考え方の特徴は、わたしなどには異論があることだが、科学技術の自己目的でもあり、自己衝動でもある「遂行性の改良」を、技術に要請しているのは〈知〉の欲望というよりも富の欲望だから、科学技術と政治とは切り離せないと考えていることだ。つまり科学技術がよりおおきな剰余価値を生み出すと、その一部が研究資金として廻されて、ますます科学の生産性を高め、それが科学技術の「遂行性の改良」となり、再循環してよりおおきな剰余価値を生みだす、そんなサイクルが存在するとみなされている。

わたしには科学技術の本質は、自然の本質に肉迫しようとする〈知〉の欲望の表現であり、それが剰余価値を生みだすことにどう関与するかという社会的な〈知〉の系列とは、別個に考えられたうえで、言語表現的な知としての通底性を考慮すべきものだとしかおもえない。科学技術は〈知〉のエンドレスな「物語」系列の一分野であり、その自己衝動を消去することは、政治にはできないとかんがえる。いつかこの問題はげんみつに追い詰めてみたい気がする。

ところでポスト・モダンの条件は、現在どんな大文字の「言語行為」を生み出しているか。この本の著者は先進資本主義国家では、近代古典期以来の労働階級がシステム社会の「調整制御因子」へと変容してしまっているし、また社会主義国家では、全体主義管理機構の歯車の因子に変化してしまって、どちらの場合も国家管理に異議申し立てなどできないことになっていると指摘している。そして人々は仕方なしに第三世界とか学生青年層とかいった社会(外)カテゴリーをとらえて、そこでだけはポスト・モダンの世界体制にたいする批判的主体が形成可能な基盤があるような考え方を流布している。この本の著者はややシニカルな口調でラジカルな左翼主義者を批判している。これもまたこの本の重要な問題提起であり、気休めではない本当のところを、いつか追究したい気がする。

【この書評が収録されている書籍】
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇  / 吉本 隆明
言葉の沃野へ―書評集成〈下〉海外篇
  • 著者:吉本 隆明
  • 出版社:中央公論社
  • 装丁:文庫(273ページ)
  • ISBN:4122025990

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ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム ) / ジャン=フランソワ・リオタール
ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム )
  • 著者:ジャン=フランソワ・リオタール
  • 出版社:水声社
  • 装丁:単行本(232ページ)
  • 発売日:1989-06-01
  • ISBN:4891761598
内容紹介:
主体、自由、解放、革命といったあらゆる《大きな物語》が解体しつくした今日のポスト工業化社会の状況を、ウィトゲンシュタインの《言語ゲーム》の概念を用いて分析する、ポスト構造主義の旗手による極北的ポスト・モダン論。

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初出メディア

マリ・クレール

マリ・クレール 1986年12月

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