きわめて上手に下手な語りを再現
タイトルに「おやっ」と思うだろう。「冒けん」とある。ページをひらくと、わかってくる。同じようなのが、どんどん出てくるからだ。「『トム・ソーヤーの冒けん』てゆう本」があって、「マーク・トウェインさんてゆう人」がつくった。つづいて未ぼう人、盗ぞく、洞くつ、サッチャー判じ、利し……。勉強の足りない中学生のような書き方だが、実際、そのように書いてあって、訳者は正確に訳した。「ハックルベリー・フィン」は「トム・ソーヤー」の続篇とされているが、マーク・トウェインのような才知あふれた人が、前作の人気にあやかる二番煎じなど書くはずがない。まったくちがった物語を世に出した。表記からわかるとおり、ハックの冒険は全篇ハックルベリー・フィンが語るつくりになっている。作者が悪ガキ、浮浪者の少年にもぐりこんで、冒険の一部始終を報告させた。
むろん、下手くそな語り手である。ちゃんとした語彙(ごい)は使えないし、言いまちがうし、同じことをくり返す。語り口の一例をあげると、こんなぐあいだ。
「で、暗くなってから川ぞいの道をのぼってって……」
「で、そのうち、みさきのむこうからあかりがひとつまわってきたから……」
作者はきわめて上手に下手な語り方を再現した。そのなかに少年の正確無比な観察も入れこんだ。
ハックが久しぶりに父親と出くわすくだり。アル中で、暴れ者の浮浪者で、町中の嫌われ者、黒い髪と黒いあごヒゲがもつれ合っている。そんな「かみにかくれてないところ」は白いが、ほかの人の白いのとはちがい、「ムネがわるくなるみたいな白、鳥ハダがたつみたいな白だ」。どうしようもない悪に色があるとすれば、こんな白ではあるまいか。
少年が語り手であって、冒険のすべてが少年という「のぞき穴」を通して伝えられる。ハックが見聞しないことは語れない、せいぜい伝聞として入れ込むしかない。
だから当初は副主人公のように出てくる父親が、90ページ前後でパタリと消える。再び出てくるのは529ページ目、つまり最終ページで言及されるなど。「のぞき穴」にのぞかないと、語りようがないからだ。
仮りに「のぞき穴の原理」とすると、これこそ冒険譚(たん)にもっともふさわしいスタイルだろう。冒険にあっては、一瞬先のことは当人にもわからない。偶然をたよりに、とっさの判断で、状況をしのいでいく。窮屈なダグラス未ぼう人の家をとび出したハックルベリーが、まさにそうだ。偶然手に入れたカヌーで島に逃れ、逃亡奴隷のジムとともに、たまたま手に入れたいかだで大ミシシッピ川を下っていく。
その途中、旅する二人をいかだに受け入れた。当人たちの言い草によると、世が世であれば、公爵、王さまとたてまつられるはずのやんごとなき人物。つづく少年の報告。「このウソつきどもが王さまでも公しゃくでもないことをおれが見ぬくのに、さして時かんはかからなかった」
悪たれ少年はことのほか聡明(そうめい)で、ことのほか成熟している。ペテン師どもが集団リンチへつれていかれるのを目撃して考えた。人間というのは、なんと残酷になれるものか。つづく少年の省察。「人げんのうちがわで、良心ってのはなによりゴソッと場しょを食うのに、なにもいいことなんかない」
『ハックルベリー・フィン』が初めて訳されて百何年になるのか知らないが、ここに初めて日本語として名作が誕生した。(柴田元幸訳)