無視されてきた西欧の辺境で小説は進化した
ミラン・クンデラのこの小説論を読みながら、私はある夕刻のことを思い出していた。シンポジウムからの帰り道、私は平田オリザさんとまだ議論を続けていた。「19世紀にはサイエンティストとアーティストが並行的に出現しましたね」と水を向けると、「演出家もそうですよ」と平田さんは言った。「えっ、どういう意味?」と返すと、「あたりまえじゃないですか。演劇が『普通の人』を表現しだしたからですよ。『普通の人』を描こうにもモデルがまったくなかったから、演出家が必要になったんです」と、平田さんは淀(よど)みなく答えた。
退屈なほど些細(ささい)な出来事の重なり、そのなかで突然こよなくエロティックな行為が展開してしまう。あるいは自殺が起こる。人生のその散文的な現実のすきまから、それをそっくり塗りかえるようにして立ち上がる「喜劇性」の、極度に圧縮した描写の連なり……。〈歴史〉が過去の出来事を、現在の、要約され単純化された影絵へと変じてしまうのに対して、〈文学〉はそのように「刺繍(ししゅう)された真実」の「予備解釈というカーテン」を引き裂くところにその存在理由があると、クンデラはいう。小説は読者に、それらを鏡のように差しだす、と。
セルバンテス、フロベール、カフカ、ムージル、ゴンブローヴィチ……。彼らの文章を変奏曲のように引きながら、チェコ生まれのクンデラが語るのは小説への愛であるが、その背後には、クンデラの〈私〉とそれを編んだ〈国〉とそれを超えるもう一つの〈歴史〉(価値の歴史)への錯綜(さくそう)した思いがひかえる。
「かつて一度もみずからの命運の主人であったことも、みずからの境界線の主人であったこともない」中央ヨーロッパという括(くく)り。それを、打ち捨てられ無視されてきた西欧のもう一つの辺境であるラテンアメリカと重ねあわせながら、この二つの土地が「二十世紀小説の進化において中枢の場所を占めた」ことの意味を問う。滑稽(こっけい)と誇張とアイロニーと明晰(めいせき)さを手法とした、辺境のもう一つのモダニズムの意味を問う。
あるいは、小説はそれを産んだのとは別の国で、翻訳をつうじてより深く理解されてきたという洞察から、西欧社会にみられる、「みずからの文化を大きなコンテクストのなかで考察することの無能力(あるいは拒否)」を、頑(かたく)なな地方主義として告発する。ヨーロッパは「最小の空間のなかの最大の多様性」という、みずから育んだはずの最良の価値を見失った、と。
人びとの日常の愚行を、滑稽に、剥(む)きだしに描く小説は、じつは「悲劇的な感覚」を失ったヨーロッパの裏面でもある。たがいに相対的なものがみずからの真実を手にするのは、敵対者の破滅を代償とするかぎりのことであるという「悲劇」。その有罪感の深い感覚こそが、敵対者にも正しさを認める「和解」の条件である。が、現在、「悲劇的なものが私たちを見捨ててしまったのであり、おそらくそこにこそ真の懲罰がある」。クンデラは、「滑稽」の行く末を見つめた果てに、この重い言葉を書きつけた。