書評
『すみなれたからだで』(河出書房新社)
父を棄てる凄絶な半生
セックスレス化する若者と国家管理による家族計画を描く近未来ダークSFに挑んだ前作「アカガミ」から一転、本作は非常にプライベートな作品集となった。連作ではなく、独立した短編を八つ収める。各編の相関は基本的には薄いものの、「性と生(あるいは生活)」という主題は通底している。
まず目を引かれるのは、若い頃のつかの間の、だが鮮烈な性と生の記憶を胸に、その後の長い索漠とした人生をやり過ごす物語が2編も含まれていることだ(「バイタルサイン」「朧月夜のスーヴェニア」)。特に、母の目を盗み、高校生の娘が義父と濃密な関係を結ぶ 「バイタルサイン」は、極めて不穏で破滅的でありながら、静かで美しい余韻を残す短編で、本書の中核を担っている。
だが本当に重要なのは、冒頭の「父を山に棄てに行く」と「インフルエンザの左岸から」だ。この2編は、語り手を変えつつも、ひとつながりの「父を棄てる」物語を描いている。前者の語り手は「私」、後者は「俺」だが、「私」は作者・窪美澄であるとみなせる。最近インタビューで語られた半生とほぼ一致するからだ。つまり「父を山に棄てに行く」は私小説なのだ。後者は窪の2人の弟をモデルにしたフィクションだろうか。
「私」の半生は凄絶である。12歳のとき、父が家業をつぶし家と財産をすべて失い、「私」たちは母に棄てられる。仕事を転々とする父はやがて、妊娠中の「私」に金を無心し、自殺未遂を繰り返すようになる。子供は生まれてすぐに死んでしまった。2人目をもうけた「私」は生活のためにライターを始め、やがて小説を書き出すのだが、執筆は「子供の父親」(夫ではなくそう書く)との関係をひずませていく。
鬱を病んだ「私」は、父を持て余し「棄てる」。山奥の施設に入れるのだ。「私」はもう一人の男も棄てる決意をする。
救いはない。それは作家が今後書くなかで見つけていくことだからだ。
初出メディア

共同通信社 2016年12月18日
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