書評

『卵を産めない郭公』(新潮社)

  • 2018/08/28
卵を産めない郭公 / ジョン・ニコルズ
卵を産めない郭公
  • 著者:ジョン・ニコルズ
  • 翻訳:村上 春樹
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(382ページ)
  • 発売日:2017-04-28
  • ISBN:4102200916
内容紹介:
東部の名門カレッジを舞台に描かれる60年代アメリカの永遠の青春小説。村上春樹による瑞々しい新訳!≪村上柴田翻訳堂≫シリーズ。

生きたちょうちょをつかまえる

青春小説という言葉には、気恥しさがつきまとう。だからそう謳(うた)われているとつい手をだしかねてしまうのだが、タイトルに惹(ひ)かれて読んだこの本は、とてもいい小説だった。

『くちづけ』というタイトルで一九七〇年に一度邦訳出版されたというこの本は、一九六〇年代のアメリカ東部の街が舞台だ。控え目な大学生の男の子と、饒舌(じょうぜつ)で頓狂なそのガールフレンドの、出会いから別れまで。

二人は長距離バスグレイハウンドでの移動中に出会うのだが、その最初の場面から、いきなりひきこまれる。なにしろその夕方、彼は「停留所のレストランの正面にあるコンクリート製の何か(、、)に腰掛けて」いたのだし、「レストランからふらふらと出てきた」彼女もまた、「数フィート離れたもうひとつのコンクリート製の何か(、、)に腰掛け」るのだ。どうしてかはわからないが、一人旅の若い人というのは、椅子ではない何かに腰掛けがちだ。ロードムービーの一場面みたいなこの描写を読んだだけで、この作家の“目”への期待がふくらんだ。こういう小説の場合特に、“目”は大切だ。その“目”にとまり、収集されたディテールによってのみ、世界の手ざわりが閉じ込められるからで、それは、ちょうちょを生きたままつかまえようとすることに似ている。

主人公のガールフレンドであるプーキーという女の子の、感傷的とも言えるしドライとも言える、子供っぽいとも言えるし背のびをしているとも言える、それ自体がいわば定形的なその造形は、定形であるにもかかわらず(というか、おそらく定形のなかに捕獲されたからこそ)とびきりいきがいい。つぴつぴ跳ねる、小川の水みたいだ。彼女がじゃんじゃんくりだす言葉を読むのはたのしい(くり返しになるが、彼女はほんとうに饒舌なのだ)。言葉、言葉、言葉。言葉で世界となんとか折り合いをつけようとする彼らの、涙ぐましい勇敢さ!

プーキー語録にはおもしろいものがいろいろあるのだが、自作の絵(魚が半分にちぎれているような図)について、「誰が見たってこれはただのはじけでしょうが」と言う場面が私は好きだ。それは遊びであると同時に親密さの確認であり、他者とつながることや、自分たちが特別であることへの熱意と切望でもある。彼らの恋愛には、年端のいかない兄妹とか幼獣とかにも似た、まるごとの感覚がたっぷりとある。

物語の設定はニートなまでに定形なのだが、青春小説における定形というのは野のようなものなのだろうと思う。

大学生というある種特権的な立場と年齢、一人前の大人として行動する自由を持ちながら、自分で自分を子供に分類することが可能な数年間のあれこれは、あまりにもとりとめがなく、放っておけば、やがて整理された骨格だけを残して雲散霧消してしまう。でも、得がたくジューシーなのは、当然ながら骨格以外の部分であって、それは野に置いて初めて呼吸する(なにしろちょうちょ)。

アメリカで最初に出版されたのが一九六五年というこの小説がこんなに新鮮なのは、消えてゆくものの捕獲に徹底的に成功してしまったからではないかと思う。本のなかに閉じ込めるということ、時代の空気を、そのときたしかにそこにあったものを、発せられるそばから消えていく言葉を――。

そういうことのできた本は祝福されている。こうでしかあり得なかった、という正しいありようで、この小説は存在し続けている。(村上春樹訳)
卵を産めない郭公 / ジョン・ニコルズ
卵を産めない郭公
  • 著者:ジョン・ニコルズ
  • 翻訳:村上 春樹
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(382ページ)
  • 発売日:2017-04-28
  • ISBN:4102200916
内容紹介:
東部の名門カレッジを舞台に描かれる60年代アメリカの永遠の青春小説。村上春樹による瑞々しい新訳!≪村上柴田翻訳堂≫シリーズ。

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初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 2017年8月13日

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