後書き
『怪異を読む・書く』(国書刊行会)
文学表現としての《怪異》の姿に迫る一冊
本書は、日本の近世から近代にかけての怪異小説や怪異の表現について、「読む」「書く」の双方から迫ろうとしたものである。怪異は作者だけのものではない。「読む」という行為を通じて、多くの人々に開かれたものとなる。現代の我々が持つ印象とは別の怖さを、当時の読み手は感じていたかもしれない。また、優れた読み手によって、数百年にわたって埋もれていた作品の真の姿が露わになることもあるだろう。文学作品とも言いがたい断片と断片とが、読み手によって紡ぎ合わされることによって、怪異の容貌を浮かび上がらせれば、それはもう、読み手の創作と言えるかもしれない。
いっぽう、怪異を「書く」とは、近世、近代においてどのような営みだったのであろうか。怪談の名手の奥義は奈辺に見定められ、どのように説明できるのか。また作者は、中国や日本の古典や伝説を踏まえて、いかなる独自の怪異を作り出したのだろうか。
こうした怪異をめぐる言葉のさまざまな可能性を求めて、近世文学、近代文学の研究者たちが論文の形で挑んだ。それぞれの論文をお読みいただければ分かる通り、題材も、手法も、結論も、千差万別である。しかしながら、怪異というテーマで、文学研究者の側から世に問われた論集としては、私が知る限りでははじめてのものである。本書が文学研究者に限らず、怪異に関心を持つ多方面の方々に読まれ、議論を巻き起こすことを期待している。
じつは、本書にはもうひとつの目的がある。それは、平成三十年二月二十三日に逝去された日本近世文学研究者、木越治先生の霊前に捧げることである。
そもそも本書は、先生の古稀記念出版として計画したものであった。最年長の弟子である筆者が先生に声をかけたのは、手控えによれば、およそ四年前の平成二十六年十月。それから紆余曲折あって、国書刊行会の編集者・伊藤昂大氏とはじめて話し合いの場を持ったのが平成二十八年六月のことであった。先生のご意向に沿って執筆者を選定し、執筆依頼状を各氏にお送りしたのが平成二十八年八月。今から二年以上も前である。先生とは「古稀記念だからといって雑多な論文の寄せ集めではつまらないでしょう」「では怪異で書いてもらおう」「誕生日も兼ねた出版記念パーティーは派手にやりましょう」「じゃあ金沢の仲間をよんで太鼓でも披露しようかな」などと話が弾んだ。このように余裕と希望に満ちた船出であったのだが、すでに論文も集まり始めた今年になって、先生はあの世へ旅立ってしまわれた。
目標を失って一時は呆然としたが、予定通り先生の古稀誕生日に刊行することこそが何よりの供養になるだろうと思い直した。執筆者各位の同意を得て、そして編集伊藤氏の緻密な仕事に助けられ、こうして先生の古稀誕生日に一冊の書物として霊前へと捧げることができた。
[書き手] 勝又 基(明星大学教授)
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