文学を動的環境の中で生け捕りに
小説はミメーシス(模倣)の観点からして、文芸作品のなかで最も甚だしい錯覚を要する、最も似ていない物真似である、という称え方をしたことがある。たとえば、人の生を再現する演劇は人間の身体が媒体になり、その似姿が目や耳で捉えやすい。オペラも舞踏も映画も絵画も、三次元の生をフィジカルに写しとる面がある。
ところが、文字作品は媒体的にいえば、ただのインクの染みまたはピクセルの集まりだ。その羅列に一定の意味を見出し、声や動きや心情まで立ちあがらせるのは、読者の頭に全て任されている。
こうしてメディウム(媒体)を乗り越えて何がしかの印象を形成する作業が、「物語を読む」と呼ばれる行為だ。
そんな“脆い”文学作品はどのようなエコロジー(生態系)で生息し、どのように私たちの言動や「心」をシミュレートするのか? ゲーム作家・哲学者の山本貴光はこの問いをプログラマーの目でじつに緻密に分析してくれた。
つまり、作品を一つの静止した対象物として解剖するのではなく、それが動き回る環境の中で生け捕りにしようとしたのが本書だ。
第Ⅱ部「空間」ではバルザックの『ゴリオ爺さん』などの小説が分析される。読者の「真っ白な意識内世界」に、作品内世界はどのように組み立てられていくのか。山本は、明示と暗示と中略によって成り立つ小説の本質を何度か明確に指摘している。
第Ⅲ部「時間」では、ウェルズの『タイムマシン』が詳述される。「人がものを読むとき第一には文字を目から入れるという身体の動きと、変化という時間が関わって」おり、「その結果、意識に生じる出来事とその変化にも時間が関わっている」のだと。
著者はこれを「身体の時間」、「意識の時間」と呼ぶ。二時間かかった夕食について読者は八分で読んだりするだろう。しかし体感的には二時間の夕食を味わっているのではないか?
ここで特異性が指摘されるのが、小説内で最も忠実なミメーシスぶりを発揮できる会話部分だ。地の文は暗示と要約でまとめられても、直接話法のセリフでそれをやったら間接話法のディエゲーシス(叙述)になってしまう。
そもそも小説というのは(飛ばし読み、斜め読みはできても)、視聴覚作品のように倍速で「知る」ことができるものではなく、一語一句を等速で「体験」するしかないものだと改めて実感する。
第Ⅳ部「心」は文学論の中核と言えるだろう。夏目漱石は、文芸作品は「F+f」即ち「認識」とそこから生まれる「感情」によって成ると論じたというが、これはおそらく現代の「心脳問題」に通じるのだろう。個人の経験(による意識)は一人称ごとだ。それを脳神経の科学知に還元するのは、いわば三人称化であり、ここに架橋できない溝がある。
故に、他者の心を語り手が三人称で書く小説とは何なのかという大きな問いにもぶつかるわけだ。
著者は本書を「試論(エッセイ)」と呼ぶ。しかしそれは仮初のものではないはずだ。古井由吉がムージル論の「エッセイズム」で述べた、「ひとりの人間の内的な生がひとつの決定的な想念において取る形態」ではないだろうか。