書評

『心変わり』(岩波書店)

  • 2019/02/08
心変わり / ミシェル・ビュトール
心変わり
  • 著者:ミシェル・ビュトール
  • 翻訳:清水 徹
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(482ページ)
  • 発売日:2005-11-16
  • ISBN:4003750616
内容紹介:
早朝、汽車に乗り込んだ「きみ」はローマに住む愛人とパリで同棲する決意をしていた。「きみ」の内面はローマを背景とした愛の歓びに彩られていたが、旅の疲労とともに…。一九五〇年代の文壇に二人称の語りで颯爽と登場したフランス小説。ルノードー賞受賞作。

ミシェル・ビュトール(Michel Butor 1926-2016)

フランスの作家・批評家。『ミラノ通り』(1954)、『時間割』(1956)、『心変わり』(1957)、『段階』(1960)と、斬新は手法による作品を発表し、アラン・ロブ=グリエとならぶヌーヴォー・ロマンの旗頭と目される。文学や絵画、音楽を論じた文章も多く発表。また、美術家とのコラボレーションも手がけている。そのほかの著作に『合い間』(1973)、自伝的作品『仔猿のような芸術家の肖像』(1967)、講演録『即興演奏』(1993)などがある。

introduction

二十歳ぐらいのころ、「退屈である愉快」ということをよく考えていた。娯楽作品なんてうんざり、偉そうな芸術もまっぴらごめん。そんな生意気で生半可な若僧が偏愛していたのが、ミシェル・ビュトールとジュリアン・グラックだった。本当はアラン・ロブ=グリエが気に入っていたのだが、いかんせん、彼の作品は面白すぎた。おなじヌーヴォー・ロマンでもビュトールのほうが抑制されているかんじがしたのだ。それからしばらくして、どれも“面白い”と言えばいいんだと達観し、現在にいたっている。喜怒哀楽みたいな脊髄反射で楽しむものだけが面白さではないということですね。ところで、ぼくにとって列車文学の最高峰は、これから紹介する『心変わり』と、内田百閒の『阿房列車』だ。百閒先生も「退屈である愉快」をわかっていたひとだと思う。

▼ ▼ ▼

もう何度繰りかえしただろう、この退屈な列車の旅を。座りごこちの悪い椅子にひとり腰かけ、かすかな眠気とつきあうだけの、あてどもない数時間。しかしこの退屈は、一種の僥倖でもある。いつも暮している世界から切りはなされた、猶予の時間。流れゆく車窓の風景、車輛のなかでの人の動きを見るとはなしに眺めながら、とりとめのない思いが浮かんでは消えていく。

世の中には、三種類の人間がいる。第一に列車の旅をたんなる移動手段としてしか考えない人間、第二に車輛のなかにどうにかして旅情を持ちこまないと気のすまない人間、第三に旅の退屈さにひそかな愛着を抱いている人間。このうちの最後の範疇に、ぼくは属している。もし、あなたもおなじ種類のひとならば、きっと、次のような文章が織りこまれた物語に関心を持つことだろう。

あいかわらず雨のためぼんやりしている窓のむこうに、鉄塔が整然と等間隔にならんで流れている。その整然さを不意にほんのすこし強くかき乱すように、その鉄塔の列に重なってあらわれた碁盤縞模様の信号機が、がたりと九十度廻る。すこし強い振動がきて、きみの右手の下にある灰落としの蓋が跳びはねる。通路のむこうの窓ガラスは、まるでウィルソン霧函のなかで分子がきわめてゆっくりと、ためらうように運動するときの軌道のような、小さな流れの束で縦に縞目がついている。その窓ガラスのむこう側に、一台の雨覆いをかけたトラックが、道の黄色い水たまりのなかで、ものすごくはねをあげている。

『心変わり』は、朝八時十分パリ・リヨン駅発-翌朝五時四十五分ローマ終着駅到着の、二十数時間の列車旅行を描いている。主人公の呼称に“きみ”という二人称が採用されているのは破格であるけれど、作品の舞台となるのは、主人公が座る三等車室とその周辺に限定され、とりたてて取りあげるような事件はなにひとつ起こらない。

かといって、さきほど引用した淡々とした描写ばかりがつづくわけでもない。移りゆく車窓の風景、その表面だけをたんねんになぞった無機的な叙述が、この作品の速度を律しているのはたしかだが、その流れのなかに、過去の回想や未来への期待があわく交錯する。主人公が浅いまどろみに落ちれば、神話のイメージが浮上してくる。これらの断片を継ぎあわせていくビュトールの手つきは、じつにみごとだ。句点を打たずに長い文章つなげる箇所があり、会話がとぎれない箇所があり、思考の入れかわりには行間をあけ、また夢に入りこむところでは急に二人称“きみ”から三人称“かれ”へと移行するなど、文章を自在に操っている。

その一方、ストーリイはといえば、じつに単純だ。主人公の“きみ”が、パリに住む妻子には仕事といつわって列車に乗り、ローマに住む愛人セシルのもとにむかう――ただそれだけである。

セシルはパリでの仕事を見つけることに成功したという。だから、“きみ”は「自分は妻と離婚するからふたりで一緒に暮そう」と告げるつもりで出発した。しかし旅の過程で、その気持ちはゆっくりと変化していく。自分が愛したのはローマにいるセシルであり、もし彼女がパリに来てしまったら、そして、そこでの暮しのなかで新しい関係が生まれたら、おなじ愛情はもう抱けないだろう。

この作品の原題LA MODIFICATION には、パリからローマへの時間と空間の「移動」と、“きみ”の心理の「変容」という二重の意味がこめられている。もちろん作品内における両者のあいだには、なんの因果関係もない。列車はただ機械的に軌道をたどるばかりであり、“きみ”はとりとめのない連想を繰りかえすなかで、しだいに新しい気持ちをめざめさせていくだけのことだ。列車のなかでのできごとが、「心変わり」の引き金になったわけではない。

ただし、この作品の本当の主題が、パリとローマというふたつの都市であるとすれば、どうだろうか? パリから遠ざかり、一路ローマへとむかう列車――これが上昇線。その一方でパリで抱いていたセシルへの愛情を、ローマという場所への憧憬へと沈着させていく主人公の心理――これが下降線。両都市からの距離をパラメータとして、ふたつのMODIFICATIONが対照をなす。主人公の回想や空想には、かならずローマあるいはパリの情景がからんでくるし、車室のなかで見た夢は、ローマ建設の神話にかかわっている。平凡なアヴァンチュールのしたで、ふたつの都市が象徴するものを追いもとめる探索がおこなわれているのだ。「移動」「変容」は、“きみ”がそれを自覚する過程でもある。

いずれにしても、「移動」「変容」はふつうの小説で期待されるようなドラマにはならず、車窓からの風景にも回想の情景にも、新奇ななにかや感情を掻きたてるものは見あたらない。しかし、だからこそ読者は、みずからがいつか体験した(そして、これからもするであろう)かわりばえのしない退屈な列車の旅を、この物語に重ねあわせてしまう。知らず知らずのうちに。

ビュトールが採用した“きみ”という二人称も、けっして奇異なものではない。それは主語である以上に、一種の間投詞として作用し、あらわれるたびに作品と読者の界面の微細な穴を穿つ。その穴を通して、列車の動きにつれて去来するのとりとめのない想起――訳者あとがきの言葉を借りれば「突飛な考え、不意の欲情、その他、とても他人には伝達不能な、偶発的で不連続なこと」「心理的現実」――が、読むひとの経験として刻印されていく。

そして、ふいに気づくのだ。読書というのもまたMODIFICATIONだということを。

【この書評が収録されている書籍】
世界文学ワンダーランド / 牧 眞司
世界文学ワンダーランド
  • 著者:牧 眞司
  • 出版社:本の雑誌社
  • 装丁:単行本(397ページ)
  • 発売日:2007-03-01
  • ISBN:4860110668
内容紹介:
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心変わり / ミシェル・ビュトール
心変わり
  • 著者:ミシェル・ビュトール
  • 翻訳:清水 徹
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(482ページ)
  • 発売日:2005-11-16
  • ISBN:4003750616
内容紹介:
早朝、汽車に乗り込んだ「きみ」はローマに住む愛人とパリで同棲する決意をしていた。「きみ」の内面はローマを背景とした愛の歓びに彩られていたが、旅の疲労とともに…。一九五〇年代の文壇に二人称の語りで颯爽と登場したフランス小説。ルノードー賞受賞作。

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