書評
『天使の恥部』(白水社)
マヌエル・プイグ(Manuel Puig 1932-1990)
アルゼンチン出身の作家。1956年にイタリアに留学し、そこで映画関係の道を模索するも挫折。63年にニューヨークに移り、第一長篇『リタ・ヘイワースの背信』(1968)を完成。帰国後に発表した『赤い唇』(1969)、『ブエノスアイレス事件』(1973)はベストセラーとなる。73年に政変によって国外へ脱出。亡命生活を送りながら、『蜘蛛女のキス』(1976)、『天使の恥部』(1979)、『このページを読む者に永遠の呪いあれ』(1980)などを発表。introduction
ラテンアメリカ文学というだけで、翻訳が出るそばから手をつけていた時期があって、プイグも『リタ・ヘイワースの背信』『ブエノスアイレス事件』を読んだが、そのときはあまり印象に残らなかった。前者は、サッカーと映画しか娯楽のない街で成長していく少年の話。後者は、悲惨な過去を引きずって男性遍歴を重ねる女と、正常な性行為ができなくなった美術界の大物との、不毛な愛の物語。どちらもストーリイだけ取りだしてしまえば、ぼくの興味を引くものではない。だが、つぎに翻訳された『蜘蛛女のキス』を読んで、プイグに対する認識ががらりと変わった。ぼくが南米の現代文学に期待していた魔術的リアリズムとは異なるが、この作家もまた、複数の世界が混淆するリアリティを扱っているのだ。それがさらに先鋭化されたのが『天使の恥部』である。▼ ▼ ▼
坂口安吾は「探偵小説を截る」という随筆のなかで、当時の探偵小説界の知性の貧困を嘆いている。曰く「犯罪という人間心理の秘奥について物語を作りながらくだらぬ学術をふりまくばかりで人間そのものについて、何ら誠実な勉強も行われていない」。この非難に対して、ミステリ愛好家や純文学嫌いの人だったら、「いやミステリの真髄はそんなところにはない、旧弊な文学観を押しつけないでほしい」と反撥するかもしれない。しかし、安吾は探偵小説に純文学とおなじ質をもとめていたわけではなく、「読者がもっともらしく思えるくらいには人間を描いてくれ」くらいのかんじだ。
安吾のこの願いは、こんにちでは篠田節子によって理想的なかたちで達成されている。裏がえしに見るなら、「人間を描く」ことそのものは、それがエンターテインメントであれ文学であれ、たかだか常識感覚や物語作法の次元なのだ。それにあきたらず主題的に“人間そのもの”を追究しようとすると、どんどんヘンタイな方向へむいてしまう。“人間そのもの”という思いこみがじつは陥穽罠であって、そこには特別なものはなにもないのだと気づくところから、二十世紀の文学は出発している。号砲をとどろかせたのは、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』だ。
その後、さまざまなアプローチがされてきたし、いまなおつづいている。たとえば、マヌエル・プイグの『天使の恥部』の冒頭におかれた、さりげなく巧妙な仕かけ。めくるめくミラー・メイズにつながる入口。
突然、その掌がひきつる。だが、ピンクやブルー、様々な色に化粧された完璧なまでに美しい顔は弛緩したまま。まもなく、世界一の美女は不安に怯えて上体を起こす。その顔に表情が戻る。長く弓なりになっているために付けているように見えるまつげが、大きく見開いた目に陰をおとす。夢の中で、でっぷり肥えた医者と出会ったところだった。礼服を着たその医者は山高帽を掛けると、白いゴム手袋をはめながら近づき、巨大な綿の塊の上に横たわっている彼女の胸をメスで切り開く、すると――心臓ではなく――複雑な時計仕掛けが現われる。死の床についているはずのその女は、病人ではなく、機械仕掛け、それも壊れた人形だった。[強調は引用者による]
世界一の美女は夢のなかで、胸を切り開かれる。それは彼女自身が体験しているはずだが、メスが時計仕掛けを暴いたとき、彼女はすでに傍観する立場にいる。医者が執刀しているのは、彼女ではなく、その女、壊れた人形なのだ。
夢のなかでは、主観と客観の逆転がしばしば起こる。それは奇妙だが、けっして不自然なものではない。〈主観/客観〉という昼の論理のほうが、むしろ欺瞞かもしれない。〈私〉と〈他者〉――しかし〈他者〉とは、鏡に映った〈私〉、その裏面を見ることのできないもうひとりの〈私〉ではないか。
この作品の主人公は三人。二十世紀のはじめウィーンで生まれた世界一の美人女優、氷河期の未来で男たちの性的治療に従事するW218という名の女、そしてメキシコの病院で入院生活を送っているアニータ。別の時代に生きるこの三人の人生が平行して語られていくのだが、彼女たちはみな「わたし(たち)を理解してくれる男性と出会いたい」という願いを抱えている。その願望について日記に書とめながら、アニータはふと考える。「なぜ、わたしたちと複数形で書いてしまうのだろう」。彼女たち三人は、ひとつの〈私〉でもあり、互いに夢のなかで出会う〈他者〉でもある。
W218はしばしば氷河期の前の夢を見る。そこにかならず登場するのが、ウィーンの女優だ。
女優は、人の心を読む能力の研究をしていた科学者の落し胤であり、その出自のために国際的な謀略に巻きこまれてしまう。軍事工場の事業主である夫によって豪邸に幽閉された彼女だが、ソヴィエトのスパイの手助けによって国外に脱出。逃避行の最中に、女の子を産むのだが、映画業界で生きていくために別れて暮すはめになる。
それと似た境遇にあるのが、入院中のアニータだ。愛する娘は離婚した夫に引きとられ、会うこともまままらない。見舞いにきた友人は、彼女の顔を見て「あなた昔の映画女優にそっくりね」と言う。金持ちと結婚したのに、映画のために家庭を捨てたウィーンの美人女優。その美貌を受け継いだ(?)アニータも、離婚後しばらく交際のあった弁護士との関係にピリオドをうち、強引な求婚をする農場主をはねつけて、いまは孤独をかこっている。
W218の今日の患者は、弁護士と農夫だった。あまり順調とはいえない治療のあと、家に帰った彼女は、また女優の夢を見る……。
三人の女の物語は独立しながら、しだいに共鳴を強くしていく。女優に発現するはずの読心能力はW218に引きつがれ、W218が自分を弄んだ恋人に復讐を遂げるとき、アニータは後悔の涙にくれる。モビールのようにつながった平行世界。
国際的謀略に翻弄される美人女優の悲劇も、氷河に閉ざされた未来で数奇な運命をたどるW218の物語も、すべて病床のアニータが創りあげたファンタジーだと理解することはたやすい。実際、アニータの境遇が見舞客とのとりとめのない会話、繰りごとの多い日記で綴られるのに対し、女優とW218のエピソードは、視覚に訴える描写に彩られ起伏に富んだ展開を見せる。しかし、すべての物語を、アニータに、ただひとりの〈私〉に、回収することはもはやできない。ウィーンの女優はアニータの知らない昨日にを思いを馳せ、W218はアニータが予想できない明日へと歩みだす。その昨日や明日にどんな意味があるのか、アニータはあとになってから思いいたるのだ。三枚の合わせ鏡から放たれた光は、「人間を描く」などという水準より、はるかに深いところへと降りていく。
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