自分と家族のみならず、飼っている犬・猫・小鳥まで一枚の絵の中におさめてしまう、一八世紀にイギリス貴族の間ではやったカンバセイション・ピース。〈家族の肖像〉と訳されるその言葉をタイトルに持つ保坂和志さんの最新小説は、東京・世田谷に建つ築五〇年の古い一軒家を舞台に、“今の此処”と“かつての此処”が静かに深く呼応する様を描いた傑作長篇だ(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2003年)。
小説家の「私」が妻や猫三匹と暮らしている家は、後輩が経営する社員三人の会社が間借りし、妻の大学生の姪も同居している。これはそもそも「私」の伯父さんが建てた家で、かつては祖父母に伯父夫婦、年上のいとこたちが暮らし、「私」も一時期、母や弟と住んだことのある、にぎやかな記憶の残る場所だ。猫と遊び、横浜ベイスターズを球場で応援し、庭木に水をやり、同居人たちとの会話を楽しみ、お盆でやってきたいとこたちを歓待し、かつての記憶を今の家の中に認め蘇らせ――。夏から秋にかけての「私」の穏やかな日々が淡々と流れていく。
保坂和志さんの小説はよく「何も起こらない日常を描いて云々」と評される。でも、そう? 日常って何も起こってない? 起こってないんじゃなくて、起きたことに無自覚なだけなんじゃない?
保坂さんは日々を流さない。日常生活の充足感をきちんと言葉にし、今・此処の空気を作り出した、かつて・此処で起こったことや、生活していた人や動物に想いを馳せる。
「家にはかつてそこに住んだ人たちの気配がいつまでも残るものなのだ」
愛猫チャーちゃんは死んでしまったのだけれど、それは“いない”ということではない。“生きる/死ぬ”ということは、“いる/いない”とイコールではないと、保坂さんは強く確信し、その言葉にしにくい感覚を読者に意を尽くして伝えてくれる。流すことなく、時に立ち止まって、日常の中で起きるささやかな出来事を認め、思いを寄せれば、今・此処は輝きを取り戻す。かつて・此処が今・此処の光の中でその影の濃さを増す。
深遠な哲学が語られているのに、少しも難解ではない。立体的な登場人物、彼らが交わす対話小説といってもいいほど多い会話、絶妙のタイミングで繰り出される笑い。これは、たしかに現時点での著者の最高傑作だ。劇的な恋愛や猟奇的な殺人、涙を誘う癒しの物語を扱った小説ばかりがよく売れるけど、「そんな簡単に共感をえられるようなものばっかり読もうとしないで、中身が全然想像つかないものを読みなさいよ」、「私」の妻が姪に放つ言葉に強くうなずいてしまうわたしだ。
ホント、読みなさいよ。
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