書評

『<私>という演算』(中央公論新社)

  • 2020/06/06
<私>という演算 / 保坂 和志
<私>という演算
  • 著者:保坂 和志
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(196ページ)
  • 発売日:2004-02-00
  • ISBN-10:4122043336
  • ISBN-13:978-4122043336
内容紹介:
“私”についてこうして書いている“私”という存在は、いつか“私”がいなくなったあとにかつていた“私”を想起する何者かによって“私”の考えをなぞるようにして書かれた産物なのかもしれない…。表題作をはじめ、「写真の中の猫」「閉じない円環」など、“私”と世界との関係を真摯に見つめなおした、九つの思考のかたち。

語り口について

哲学的に疑ってかかるというわけでもなく、論理から漏れ出た部分を拾いあげるというわけでもなく、もはやそれ以上は分析不可能な「生理」に依存する発話の魅力を最初に小説のなかへとりこんだのは田中小実昌だが、『〈私〉という演算』を読んでいて、独特の節まわしと理解の手順に、ときおりこの先達の影を強く感じないではいられなかった。誤解のないように言い添えておくが、これは正真正銘の讃辞である。白黒のつかないことがらについては無理に判断せず、ひたすら保留と逸脱を繰り返していくその道筋がいつのまにか独自のリズムを創り出し、小説を書きながらでしか思考できない不自由の自由を楽しむ「コミさん」こそは著しく模倣困難な人物であって、表面的な言葉づかいだけ真似してみてもまったく形にはならない怖ろしい存在なのだ。この人の匂いを感じさせることじたい、だからすでにひとつの驚異なのである。

もっとも私が指摘するまでもなく、「小説に対する志向や嗜好をはっきりさせてしまったのは二十二歳のときに読んだ田中小実昌の『ポロポロ』」であり、この名作の秘密は「書かれたことが定着することを頑強に拒もうとする話法」(「アウトブリード」)にあると著者自身が述べているので、作風における周波数の近接は、じゅうぶんに意識したうえでのことと受け取っていいだろう。

実際、ここに収められた九篇の散文を既成のジャンルに押し込めるのはまったく意味がない。定められた枠から外れようとする力線は書き手のほうでも承知しているから、「ぼくにとって小説というのは、フィクションであるかどうかということではたぶん全然なくて、歌かどうかということであるらしい」と見定めるほかないのだし、すでにして定義不能の「歌」が捨象されたこれらの文章が「その分、思考の生の形に近」づくのは当然の事態なのである。さまざまな議論が登場人物の台詞を通じて適度に分散され、良い意味で求心力を欠いていた『季節の記憶』とはちがい、ここでは語りの基点がとりあえず「ぼく」にあり、問いかけも、応答も、さらにその否定も、眼前にあるものをいっさいがっさい抱え込んで答えのない演算を仕掛けているところに大きな魅力がある。

その演算の中心に位置するのが、「私」とはなにか、「死」とはなにかというながい歴史を背負った——それを囲繞(いにょう)する外堀としての時代が変化しているかぎりいつまでも新鮮で本質的な——命題である。文学がとらえるべき本当の死が誰のものでもない「私の死」だとすれば、「私」を主語に据えることは、絶対に自分の死以外を見つめず、同時に「私」の死にはけっして到達しないという二重の拘束を受けることに等しい。といって三人称を主題に置けば、「私の死」とはなにかについての回答は永遠に先送りされるはずだから、結局どのような「解」もありえないことになり、それにあわせて行文も宿命的な迂回を義務づけられる。

まだ立つこともできなかった幼少時の写真にうつっている猫を自分が記憶していないという小さな衝撃——このモティーフは『もうひとつの季節』でも使われている——からはじまり、それがリュミエールの映画に記録されている百年前の猫の映像に触れた際の感慨へとつながってゆく冒頭の一篇、「写真のなかの猫」は、だからその二重拘束の提示部として大変に有効だと言わざるをえない。「自分が生まれるよりずっと前に生きていた犬や猫がいた」こと、さらに「時間がこの世界に残らないで消えてしまう」ことの不思議が、すべて「死」をめぐる省察にはねかえってくるからだ。

小津安二郎の『秋刀魚の味』に見られる笠智衆をとらえたショットの奇妙さと、机にむかっていた岩下志麻がこちらへ振り返る動作の幽霊みたいなぎこちなさとをつなげて、この映画全体が「死」を思わせる緩慢さと停滞感に浸されているのではないかと漏らす「そうみえた『秋刀魚の味』」や、仏に手を合わせようとしなかった祖母の思い出に触れつつ、なぜ彼女に信心がなかったのかを考えた末にやはり結論が出ず、結論の出ないことがわかっている証拠かもしれないと呟く「祖母の不信心」なども、無手勝流を装った《コミさん》的な語りのずらしで、中心となる主題を巧みに引き寄せている。

けれども田中小実昌の世界が滑らかな逸脱と瓢逸のヴェールをまとった回帰の実践にあるのに対して、保坂和志のそれは、けっして流れない種類の逸脱、つまり停滞に存している。停滞することが思考そのものであるかのようなこのざらついた感触は数式の素気なさを連想させずにおかないのだが、もっとも目につくのは徹底した感傷の排除だろう。たとえば、「ノスタルジー」を語ることは「個人の正しく個人的な記憶を語ることではなくて、その限りにおいて個人の記憶と見なしてもかまわないと認知されている個人のような外見をした共通の記憶を語るある特定のグループを形成する儀式かゲームか手続きのようなもの」だと見なす距離感。「私」に「公」の郷愁という衣装を与えまいとする姿勢の貫徹ぶりにおいて、本書はこれまでの保坂作品とたしかに色合いを変えている。

ところで色合いが生理の属性だとすれば、「私の演算」とは、つまるところ語り口の追求に落ちつくのではないか。出来あがった文章が「歌」になったり「生の思考」になったりするのは、語り口にかかるバイアスによるのであって、提起された問題に解などありえないことは、最初からはっきりしているのだ。「私」が重ねていく演算とは片道切符みたいなものであり、解らしきなにかが出たとしても検算の術はないのである。そもそも検算の成り立つような安定した空間に、どうして言葉が生まれるだろう。言葉の発生の現場を見きわめようとする「私」に目を凝らした試みである以上、本書は形式の分類を気にやむ必要などまったくない、開かれた散文と呼ぶべき思考の痕跡なのである。

【この書評が収録されている書籍】
本の音 / 堀江 敏幸
本の音
  • 著者:堀江 敏幸
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(269ページ)
  • 発売日:2011-10-22
  • ISBN-10:4122055539
  • ISBN-13:978-4122055537
内容紹介:
愛と孤独について、言葉について、存在の意味について-本の音に耳を澄まし、本の中から世界を望む。小説、エッセイ、評論など、積みあげられた書物の山から見いだされた84冊。本への静かな愛にみちた書評集。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

<私>という演算 / 保坂 和志
<私>という演算
  • 著者:保坂 和志
  • 出版社:中央公論新社
  • 装丁:文庫(196ページ)
  • 発売日:2004-02-00
  • ISBN-10:4122043336
  • ISBN-13:978-4122043336
内容紹介:
“私”についてこうして書いている“私”という存在は、いつか“私”がいなくなったあとにかつていた“私”を想起する何者かによって“私”の考えをなぞるようにして書かれた産物なのかもしれない…。表題作をはじめ、「写真の中の猫」「閉じない円環」など、“私”と世界との関係を真摯に見つめなおした、九つの思考のかたち。

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群像 1999年5月

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