本には人格がある
私は一年間に三六五冊以上の本を買っている。一日に一冊以上の本を買っていることになる。そんなことをずっとつづけているので、本棚が一つまた一つと増えて、別宅にも本棚を置いているが、ついには収まりきらずに本が床に散乱しているありさまである。こんな状態だと、うっかり本を踏んでしまうところだが、私は小さいころから「本は踏んではいけない」と教えられて育ったので、床にある本を踏みそうになっても、踏まないように本を避けて着地できている。
先日、本をテーマにしたNHKの番組に出演したおり、私が「なぜ本を踏んではいけないのかわかりますか」と番組スタッフに問いかけたところ、「そういえば本って踏まないですよね」と、興味を持ってくれた。そして番組の終わりに、「先生の話を聞いて、そのわけがわかりました!」と、一同腑に落ちた。
本は踏んだからといって読めなくなるものではない。破ったりしたら読めなくなるが、踏んでも、めったなことでは壊れない。なのに、なぜ本を踏んではいけないのか。
昔の人は「畳の縁(へり)を足で踏むな」「枕を足で踏むな」などと子どもに諭した。一般的に、物を踏むという行為は、その物を大切にしていない、ぞんざいに扱ってもかまわないという気持ちの表れとされる。しかし、本を踏んではいけない理由にはもっと深いものがある。
それは、「本には人格がある」からである。
本には著者の生命と尊厳が込められている。著者そのものが生きているようなものなので、本を踏むことは、著者の人格を踏みにじるに等しい行為なのである。
本書の『なぜ本を踏んではいけないのか』という問いは、端的に言ってしまえば、そういうことなのである。「なんだそんなことか」と言う人がいるかもしれない。しかし、このことは、あなたが考えている以上に重要な意味を持っているのである。
私は、本を読むという行為は、著者の人格の継承、先導者(メンター)の精神の継承にあると考える。
本当によい本は、文章に著者の息づかいが込められている。感情の起伏も文章に表れる。気概や志にいたっては、濃密に凝縮されている。本を読むという行為はそれらを自分の体に刻み込むことにある。
私はこれを「人格読書法」と呼んでいる。
本を読むからこそ思考も人間力も深まる
今の時代、「読書とは何か?」と尋ねたら、「情報や知識を得る手段」と答える人が少なくないであろう。たしかに本は情報を得るための優れた媒体である。本を読むことで情報や知識をたくわえることができる。読書は情報伝達の手段、情報入手の手段となっている。一方で、「インターネットで情報を入手するから本はいらない」という風潮も広がっている。インターネットの隆盛によって、すべてを情報として見る見方がどんどん進んでいる。
自分に必要な情報を素早く切り取り、それらを総合する力は、これからの社会ではますます不可欠になっていくであろう。しかし、断片的な情報を処理し総合するだけでは、深い思考や人間性や人間力は十分につちかわれない。
私は「本を読むからこそ思考も、人間性や人間力も深まる」と考える。
人間の総合的な成長は、優れた人間との対話を通じてはぐくまれる。しかし、身のまわりに先導者と呼べるような優れた人がいるとはかぎらない。しかし本であれば、いつでもどこでも優れた人と「対話」できる。この出合いが、向上心を刺激し、思考や人間性を高めることにつながる。
著者は目の前にいるわけではないが、深く静かに語りかけてくる。優れた人格を持った人が、努力に努力を重ねて到達した認識を、読み手である私にていねいに語りかけてくれる。
私は本を読むとき、著者が自分一人に向かって語りかけてくれているように感じながら読むようにしている。
著者の凝縮した話を独り占めにして聴くことができるとは、なんと贅沢な時間であろうか。
だから、本はけっして高くない。
本は「モノ」ではない。本を著者そのもの、著者の人格の表れと思って読むことは、本の効用を格段に高めてくれる。著者と一対一で過ごした時間は、自分にとって貴重なものとなるのである。
デカルトは『方法序説』のなかで言っている。
「すべて良書を読むことは、著者である過去の世紀の一流の人びとと親しく語り合うようなもので、しかもその会話は、かれらの思想の最上のものだけを見せてくれる、入念な準備のなされたものだ」(岩波文庫、谷川多佳子訳)
本は絶滅危惧種になるか
本には人格があり、本を読むという行為は〝魂の継承〟であり、そのことを通して思考や人間性を深めることができると書いたが、本と同じ活字媒体である新聞や雑誌はどうであろうか。新聞は記者や寄稿者が文章を書いているわけだが、踏むことができる。もちろん意図的ではないが、私も新聞を踏んでしまうことがある。また、キャンプのときに新聞紙をくべて燃やしたり、箱詰めにするときに詰めものとして丸めて使ったり、寒さをしのぐのにも使えるし、包み紙にもなる。同じ活字媒体であるのに、本とちがって新聞は踏むことができる。
雑誌はどうであろう。私は雑誌も踏むことができる。
雑誌も新聞と同じで記者や寄稿者が文章を書いている。ただ、冊子という形態になっているので、新聞よりは本に近い。しかし、雑誌を踏んでも、本を踏んだときのような罪悪感はない。もちろん意図して踏むわけではないが、本のときのような罪悪感はない。
本と新聞や雑誌とでは何がちがうのか。その分かれ目は「単一な人格性、純粋な人格性が高いかどうか」なのである。
新聞や雑誌は複数の人がさまざまなことを書いているから、一人の著者の人格の一貫性を拒否したところに成立している。そこに新聞や雑誌の面白さがあるわけだが、著者性が薄れているがゆえに、踏んでも本ほどには罪悪感がないのである。
それに対して本は、著者の人格が一貫して表されているので、「著者の人格が表れている本ほど踏めない」のである。
「本には著者の人格が宿っている」。それはなにものにも代えがたい宝物であるという意識が、人類の文明史の中でずっとつづいてきて、その名残が私たちの中にも流れ込んでいる。ところが、これからの世代は、本を踏むことに大きな罪悪感を持たないのではないかと危惧している。(というより、もう踏んでもなんとも思わない人が育っている)。
本を読むという行為を情報や知識の入手手段としてだけとらえると、いったん情報を入手してしまえば不要になったり、情報や知識が古くなってしまうこともある。
それよりなにより、身のまわりに本がないことが大問題である。踏んではいけないはずの本がそもそも部屋にない。私はこのような状況を憂いている。
日ごろ大学生と接していて、「本を使って勉強している」学生はいるが、「(勉強とは関係なく)本を読んでいる」学生は年々少なくなっている。
私は毎年、大学に入学したての学生たち数百人に読書量を訊いているが、まったくといっていいくらい本を読まない学生が三割ほどいる。きちんとした本となると、半数以上が本を読むという習慣を持っていないのである。むずかしい本、分厚い本、漢字の多い本、文体が硬い本は、あきらかに嫌われている。
紙の本はいずれ〝絶滅危惧種〟になるとも言われる。しかし、私はそうは思わない。人間が生きていくには酸素が必要なように、本はこれからも私たちにとって欠くことのできない「精神の糧」でありつづけると思っている。本を読むという営みは、たんなる情報摂取ではなく、生きていくために必要な「糧」なのである。
[書き手]齋藤孝(明治大学文学部教授)