書評

『マザーズ』(新潮社)

  • 2020/08/23
マザーズ / 金原 ひとみ
マザーズ
  • 著者:金原 ひとみ
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(615ページ)
  • 発売日:2013-12-24
  • ISBN-10:4101313326
  • ISBN-13:978-4101313320
内容紹介:
同じ保育園に子どもを預ける作家のユカ、モデルの五月、専業主婦の涼子。先の見えない育児に疲れ切り、冷めてゆく一方の夫との関係に焦燥感を抱いた母親たちは、それぞれに追い詰められてゆくが……。子どもへの愛情と憎しみに引き裂かれる自我。身も心も蝕む疲労、そして将来への深い不安――。不倫、虐待、流産などのタブーにあえて切り込み、女性性の混沌を鮮烈に描く話題作。

女は世界の奴隷か

三人のまだ年若い母親たち。一人は、連載の原稿に追われる女性作家。夜遊びに繰り出したり、ドラッグに手を出したり、いささか素行不良ながら、二日酔いの朝もちゃんと起きて、もうすぐ二歳になる娘を保育園に送っていく。他方、仕事をもたず育児に専念する母親がいる。息子は生後約九ヵ月。そしてまた、モデルとして活躍する女性がいる。出産後も育児と仕事を両立させ、娘は三歳半になる。

同じ保育園に子どもを預け、互いに知己である彼女たちは、三人ともに、子どもが生まれたがゆえの孤独にさいなまれている。夫がもっと育児に加わってくれるなら、子どもに真摯な愛情を注いでくれるなら、そして自分をもう少し思いやってくれるならという願いは叶わないまま、辛い気持ちばかりが沈殿していく。外からは幸福な母親のイメージに合致しているように見えても、当人はイメージとのギャップを噛みしめ、身体的不調に次々とさいなまれ、助けを求めてもがき続ける。ライフスタイルはまったく異なる三人なのに、その点においては見事なまでに似かよっている。そして三者ともに、夫との関係は悪化の一途を辿りつつあり、家族の絆は脆くもほどけかかっている。

最先端の社会風俗を大胆に取り込みながら、その実、ほとんど古風なくらい真率な問題意識を秘めている。それがデビュー以来、金原ひとみの作品の変わらぬ特質となっているように思う(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2011年)。この世の中で、女はなぜこうであり、男はなぜこうであって、両者はなぜ絶望的なまでに隔たっているのか。そんないわばあまりに本質的な問いに立ち向かい続ける覚悟の潔さにおいて際立つ作家なのだ。そうした主題は、前作『TRIP TRAP』の後半以降、育児というテーマを得て新たな緊張を帯び始めた。それが本書では徹底的に描き込まれ、息詰まるほどの迫力をもたらしている。その迫力は、それぞれの母親たちの経験しつつある事柄をひたすら彼女たちの身体の内側から綴っていく、畳みかけるような筆致によって生み出される。専業主婦である涼子が、赤ん坊の一弥を抱え込んで一人、疲労困憊していく姿を見よう。

体中が絞られた形でからからに乾ききったぼろ雑巾のようだった。腕は筋肉痛。手首は腱鞘炎。腰も軌んでいる。寝不足と過労で足がふらふらする。体が疲れきっていてご飯が食べられない。ご飯が食べられないせいで母乳の出が悪く一弥の機嫌が悪くなる。泣き止ませるために抱っこをする。筋肉痛も腱鞘炎も腰痛も悪化する。ご飯が食べられないどころか何も食べていないのに吐き気がする。永遠にこのスパイラルが続くような気がした。砂のように崩れ落ちる自分の身体が頭に浮かぶ。私は育児マシーンではない。私は一弥の餌やりマシーンではない。

すべては緊密に連鎖し、その恐るべき因果性が母親を追い詰める。「密室育児」の実態に、本作はとことん具体的な言葉を与えるのだ。三人ともが母乳育児を実践している点は、現代の母親たちが置かれた状況を如実に反映している。二〇世紀末にWHOとユニセフが最低六ヵ月、できれば二年間の完全母乳が望ましいと発表し、我が国でも以後、それが育児の指針となっていることを想起すべきだろう。母親はいよいよ乳児に縛りつけられ、睡眠を奪われ、「餌やりマシーン」に近づきかねない。

本書を読んでしまうと、その境遇の過酷さに鈍感であることはもはやできなくなる。そういう意味でこれはきわめて啓蒙的な意義を備えた小説である。一人称による語りが、すべてをわが身に引き受けている者の孤立無援をこれでもかと炙り出す。とりわけ際立つのは「夫」の不在ぶりだ。単に仕事で家にいないというだけではない。「彼が私と溶け合う事」を願う妻の切望自体が斥力となるかのようで、彼らは妻に背を向け、自室の扉を閉ざす。女性作家ユカの夫は「週末婚」を提案し、平日は一人、マンスリーマンションで暮らすようになる。その部屋をユカが急襲し、「床に散乱したAVのパッケージやエロ本」を蹴散らすくだりは、彼女の憤怒が罵倒の文句とともに一気に迸り出る、壮絶な(そして悲痛な滑稽さもにじむ)場面だ。「黙って見てんじゃねえよ何とか言えふざけんなこのクソエロ親父私の自由を奪うな私に何でも押しつけんなふざけんな人がどんな思いで育児してんのか知ってんのか……」。奔流のようなその言葉を前に、夫は沈黙を守り続け、二人の関係には何の変化も生じない。若い母親は孤軍奮闘を強いられる。

ジョン・レノンはかつて「女は世界の奴隷か」と歌った。金原ひとみの小説はそうした問いを共有しながら、それをフェミニズム的な闘争につなげようとはしない。女たちの連帯が容易には成り立たないからだ。「男性による女性蔑視に耐え難いまでの苛立ちを感じていたにも拘わらず、自分自身もまた激しく女性を蔑視」しているのだとユカは述懐する。とりわけ、自分の母親に対する抜き差しならない嫌悪感が根源的な「女性蔑視」と結びついていることは、これまでの作品でも描かれてきたとおりである。母親を嫌悪したまま母親になるという、もう一つの「スパイラル」も深刻なのである。

しかし他方で、そうしたあらゆるネガティヴな側面を払拭する希望をこの小説は宿している。逆説的にも、それは男に対する希望である。「私は男の良い所ばかりを見て、女の嫌な所ばかりを見ている」。女を奴隷化する力の大元は男にありそうなものだし、男に対する期待の過剰さが女の自己疎外を生むことは、これもまた金原作品が幾度も描いてきた道筋かもしれない。それでもなお、「男」とともにあることを母親たちのだれもが強く求め続けている。作品の後半、彼女らはそれぞれが危機の大波に洗われ、家庭はまさしく崩壊の時を迎えるかに思える。しかし母親たちはいずれも、一人になる道は選ばないだろう。マザーズは「カップルズ」であることを深く欲するのだ。すべては「愛おしい男」との関係の上に築かれなければならないという意志の粘り強い貫徹は、この作品に確かな肯定性をもたらしている。しかも、母親がわが子以外の子どもに目を留め、ある種の社会性を身に帯びるようになる瞬間も、やがて訪れるのだ。

それにしても、幕切れに至るまで、ここに書きつけられた言葉の放つ熱量の大きさはただごとではない。あたかも毎瞬、生死が賭けられているかのような凄まじさに読者は呑みこまれる。育児とはまさしくそうした体験なのである。連載最終回を迎えた作家ユカは「あと三回くらいは続きそうな勢いのまま終わらせたいです」と編集者に述べる。この作品自体がそうした勢いに乗って書かれている。おそらく作者自身、終わらせることのできない物語を掴み取ったという手応えとともに、本作を書き切ったのではないだろうか。金原ひとみの新たな出発を告げる長編の誕生である。
マザーズ / 金原 ひとみ
マザーズ
  • 著者:金原 ひとみ
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(615ページ)
  • 発売日:2013-12-24
  • ISBN-10:4101313326
  • ISBN-13:978-4101313320
内容紹介:
同じ保育園に子どもを預ける作家のユカ、モデルの五月、専業主婦の涼子。先の見えない育児に疲れ切り、冷めてゆく一方の夫との関係に焦燥感を抱いた母親たちは、それぞれに追い詰められてゆくが……。子どもへの愛情と憎しみに引き裂かれる自我。身も心も蝕む疲労、そして将来への深い不安――。不倫、虐待、流産などのタブーにあえて切り込み、女性性の混沌を鮮烈に描く話題作。

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新潮

新潮 2011年10月号

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