書評

『よい病院とはなにか―病むことと老いること』(講談社)

  • 2022/06/07
よい病院とはなにか―病むことと老いること / 関川 夏央
よい病院とはなにか―病むことと老いること
  • 著者:関川 夏央
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(298ページ)
  • 発売日:1995-08-01
  • ISBN-10:406263046X
  • ISBN-13:978-4062630467
内容紹介:
先端医療の技術を人間的部分が支えている「病院的世界」。心臓外科、がん医療、脳神経外科、そして老人病棟と取材を重ね、人はいかに死ぬか=人間は何のために生きるかを問いかけた話題の一冊。希望と目的を持って生き、尊厳を保ちつつ老い、死んでいきたいひとびとのために捧げる待望のドキュメンタリー。

万古不易の問い

たまさか図書館で関川夏央の本を棚から抜くと、そのまましゃがんで最後まで読むことがある。

それだけ引きつける力がある。明治文学の素養を咀噛(そしゃく)して、自己批評すなわちユーモアを砦(とりで)とした水際だった文体。

そんな力技の主が「病院的世界」にとりくむとどうなるのか。『よい病院とはなにか』(小学館)で、その意図は前書きで明確に述べられている。

「もともとの動機はわが身に迫る病気と老いへの恐怖だった。永らく病院と縁を深くせず過ごしてこられたのはまさに僥倖である。しかし人間は誰でも病気と老いと死から逃れられないと定まっている以上、いずれは病院とつきあうことになるのである」

嫌悪や恐れを拭(ぬぐ)う早道は調べることと思い定め、臆病さゆえに、五年ごしの長い取材に着手したという。

しかし本書は感情的な体験談ではなく、専門用語飛びかう医療関係者による本でもなく、ましてジャーナリスティックな告発の書でもない。「できるだけ誠実で周到な常識人の視線で病院的世界を観察」しようとした。それが本書のユニークさである。

まずは心臓外科で狭心症のバイパス手術を、白い手術服を着て体験する。

露出した心臓というものをはじめて見たが、意外なことに嘔吐や失神に対する恐れは杞憂だった。心臓はむしろ機能的であり、美しいとさえ思えた。

そこには劇的な展開はまったくなかった。冷静さと緻密さだけがものをいうひそかな時間だけがあった。

手術用スニーカーをはいて数時間の立ち仕事。練達の執刀医は「外科医としては一生に五千人くらいしか患者を救えない。……その間に何人の優秀な医者を育てられるかですね」と語る。

第二章は末期のがん病棟。「つらいときはつらいといってね。こわいときはこわいといってね。きょうも一日がんばろうね」と声をかけながら病院内をゆくナースの〈歩行〉によってホスピス・ケアは支えられる。

患者の手術前の不安、死の覚悟、それでも「会社が大事」、社会復帰への要求、喉(のど)元すぎればまた「死ぬことがわからなくなる」人間の性こりのなさ……その心のケアもひきうけるナースという仕事の意味。

全編を通じて、医療の近代化、先端化以前に、こうした患者への受容的コミュニケーションが大切だと著者は書く。しかし同時に、患者の心理や死をかかえ込むナースの感情もまた受容されなければならない。「白衣の天使」と持ち上げられつつ精神主義で過酷な労働をしいられるナースはいまの二倍の待遇で遇されるべきだ、というのが著者の感想だ。

三章では脳神経外科、四章では老人病棟、最終章では特別養護老人ホームが取材される。「クモ膜の美しさはまるで含水量豊かなサランラップ」といった表現や、何を話しても「あんたのおかげじゃ」と答える老人のユーモラスな書きとめ方は著者の面目躍如だろう。取材を受け入れた病院の自信もさることながら、行間に批判的精神をにじませる努力も怠っていない。

経験とは、他者との遭遇によって自我が危機にさらされることだとすれば、関川夏央はまさにそのようなしかたで病院世界を経験した。そして「よい病院とはなにか」という問いはそのまま「よい患者とはなにか」「どう生きたらよく死ねるか」という強烈な問いとなって読者にはね返る。

喚起力のある本である。

【この書評が収録されている書籍】
読書休日 / 森 まゆみ
読書休日
  • 著者:森 まゆみ
  • 出版社:晶文社
  • 装丁:単行本(285ページ)
  • 発売日:1994-02-01
  • ISBN-10:4794961596
  • ISBN-13:978-4794961594
内容紹介:
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、… もっと読む
電話帳でも古新聞でも、活字ならなんでもいい。読む、書く、雑誌をつくる、と活字を愛してやまない森さんが、本をめぐる豊かな世界を語った。幼い日に心を揺さぶられた『フランダースの犬』、『ゲーテ恋愛詩集』、そして幸田文『台所のおと』まで。地域・メディア・文学・子ども・ライフスタイル―多彩なジャンルの愛読書の中から、とりわけすぐれた百冊余をおすすめする。胸おどる読書案内。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

よい病院とはなにか―病むことと老いること / 関川 夏央
よい病院とはなにか―病むことと老いること
  • 著者:関川 夏央
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(298ページ)
  • 発売日:1995-08-01
  • ISBN-10:406263046X
  • ISBN-13:978-4062630467
内容紹介:
先端医療の技術を人間的部分が支えている「病院的世界」。心臓外科、がん医療、脳神経外科、そして老人病棟と取材を重ね、人はいかに死ぬか=人間は何のために生きるかを問いかけた話題の一冊。希望と目的を持って生き、尊厳を保ちつつ老い、死んでいきたいひとびとのために捧げる待望のドキュメンタリー。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日新聞

毎日新聞 1990年6月~1993年3月

毎日新聞のニュース・情報サイト。事件や話題、経済や政治のニュース、スポーツや芸能、映画などのエンターテインメントの最新ニュースを掲載しています。

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
森 まゆみの書評/解説/選評
ページトップへ