書評

『人間万事嘘ばっかり』(筑摩書房)

  • 2022/08/15
人間万事嘘ばっかり / 山田 風太郎
人間万事嘘ばっかり
  • 著者:山田 風太郎
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(425ページ)
  • 発売日:2016-07-06
  • ISBN-10:4480433732
  • ISBN-13:978-4480433732
内容紹介:
時は移れど人間の本質は変わらない。世相からマージャン・酒・煙草、風山房での日記までを1冊に収める。単行本生前未収録エッセイの文庫化第4弾。

「戦中派の考える『侵略発言』」を読む

作家・山田風太郎が昨年(’94年)の『文藝春秋』十月号で「戦中派の考える『侵略発言』」と題して七ページほどの文章を書いた。

その後入院されたという話なので、けっして体調がよかったはずはない。「これだけは書き残しておきたい」という気持で書いたのだなというのが、じかに伝わってくる文章だった。戦争を体験した世代からは「よくぞ書いてくれた」と、たくさんの共感が寄せられたという。

ある日のこと、洋泉社編集部からこの私に、山田風太郎のこの文章を読んだ感想を書けという命令がくだった。くどいようだが、この私にである。私は「世間」とか「人の世」には興味があるが、「天下国家」のことからはできるだけ逃げ回っていたいと思う者である。とうていまともな感想なんて書けない。即座に拒否した。

にもかかわらず、私はこうして感想を書こうとしている。それはひとえに山田風太郎への敬愛のためだ。医学生だった山田風太郎があの戦争の中で書いた『戦中派不戦日記』(また、それに先立つ『戦中派虫けら日記』)を読んだとき、私はほとんど初めて、自分自身とあの戦争がつながった感じがしたのだ。もし私があの時代に生きていたら・・・・・・山田青年ほどの濃度も鮮度もなかっただろうが、それでも同じように迷い、悩んだのではないかと感じたのだ。

私はそのことをまだ、ちゃんと書いていない。今回の命令をいい機会と考えることにして書いてみよう。山田風太郎のためなら、恥をかいても構わない。

さて。問題の「戦中派の考える『侵略発言』」の要旨を追いながら、私の感想を併記していこう。

これは、直接的には昨年起きた二つの発言撤回騒動にたいする憤懣から書かれたものである。一つは、永野法務大臣の「南京大虐殺はでっちあげ」という発言。もう一つは桜井新環境庁長官の「日本も侵略戦争をしようと思って戦ったわけではない」という発言。両者とも就任そうそうだったのだが、この発言がマスコミに取りあげられて非難を浴びるやいなや、あっさり発言を撤回し、辞任した。

山田氏は、まずこういう態度を痛烈に批判する。「かれらの発言には少なくとも五分の理はあると私は思っている。その五分の理を開陳せずして、ただ全面謝罪をし、あわてふためいて辞任をしてしまう姿勢は、その言論自体よりいっそうよろしくない」。そのうえで、ガッツのない二人になりかわって、その「五分の理」を主張してみせたのだ。

まず、永野発言(=南京大虐殺の事実問題)について。

●虐殺の事実は確かにあった。

●しかし、「犠牲者三十万人」という数字には大いに疑問がある。数千人規模ではないか。永野発言の主旨も、そこ(=数字の検討)にあったはずだ。にもかかわらず、

●あらゆる疑問を呈してはならず、誇大と思われる数字もひたすら受け入れざるをえないのは、どうにも納得がいかない。

――という主張である。

次に桜井発言(=「侵略」という認識の問題)について。

●あの戦争は実態的には確かに侵略戦争であった。

●しかし、自分自身も含めた当時の日本人の多くは本気で「東亜解放」を信じていた。

桜井発言の主旨もそこにあったはずで、そういうことすら口にできないのはおかしい。

●そもそも「侵略=悪」という概念は、明治はおろか昭和初年にいたっても存在しなかった。欧米列強の植民地化競争のなかで「侵略=必要悪」だった時代もあったのだ。欧米列強はいまだに過去の侵略を悪とは見なしていないではないか(たとえば、イギリスの阿片戦争を見よ)。

――という主張である。

私は、これはほぼもっともな主張だと思った。当たり前のことを当たり前に言っていると思った。こういう正論が通用しなかったのは、山田氏が言うように「戦争中は敵の邪悪のみをあげ日本の美点のみを説き、敗戦後は敵の美点のみを説き日本の邪悪のみをあげる」という、日本人の一貫した思想的無責任体質のせいだろう。東京裁判史観に押し切られ、すっかり萎縮して、アジア諸国への「謝罪」(というのはタダではすまない、もちろん「賠償」とセットである)を責め立てられている。当たり前のことが言えない、戦中派のそのくやしさは私にも少しはわかるような気がする(こういう形で戦中派の負のエネルギーがたまってゆくのはおそろしいことだ。ただの無分別野郎の政治家が「ホンネをハッキリ言う」というただその一点で、妙な人気を獲得してしまうというのは、よくあることである)。

ただし、桜井発言に関する部分では二点ほど引っかかるものを感じた。曖昧だと思った。あの戦争が侵略戦争であったのは客観的事実である。そこに「そんなつもりじゃなかった」という主観的事実(つまり「情」の問題)を持ってきても、政治的には何の意味もないのではないか。罪が軽減されるわけではない。問題のスリカエと思われかねない。政治家はやたらに「情」の問題について語るべきではない。桜井氏の発言は、まあ、騒ぐほどのことではないが、かばうほどのことでもない。政治家という立場からすると、やっぱり「よけいなことを言ったな」と私は思う。これが第一点です。

それから第二点は、「侵略=悪」という認識に関して。山田氏は「明治はおろか昭和初年にいたっても存在していなかった」とみているが、私の乏しい歴史知識では「明治はおろか第一次大戦終結後(大正七年、一九一八年)までは」ということになる。はたして厳密にはどうなんだろうか(戦争=絶対悪と教育されてきた私たち、および若い世代に対して、こういう戦争概念の歴史的変化についてはもっときちんと語られるべきだろう)。

「侵略=悪」というのが国際的な共通認識となってからも、確かに欧米列強は侵略を続け、かつての侵略戦争に関して謝罪もしていない。しかし、欧米がそうだからといって日本が免罪されるわけではない。「偉い国だってみんなやってるじゃないか、なんでオイラばっかりが……」というのは卑怯だろう。山田氏はさすがにそうはハッキリとは書いていないが、そう読み取って溜飲をさげた人も多いんじゃないだろうか。そう読み取られそうな曖昧な書き方だ。

山田氏は、医学生だった戦時下の『戦中派不戦日記』で繰り返し、戦争への嫌悪感を書きとめている。ほとんど反戦日記と言ってもいいほどだ。乏しく歪んだ情報の中で、かなり正確に戦局を読んでいたことにも驚かされる。

山田氏の姿勢(あるいは位置)は戦中も戦後もほとんど変わらないのだ。「戦争中は敵の邪悪のみをあげ日本の美点のみを説き、敗戦後は敵の美点のみを説き日本の邪悪のみをあげる」という流れに対して、一貫して抵抗し続けている。懸命に理知と情のニュートラル・ゾーンを守り続けている。

山田氏の言葉が左翼的に響くとしたら、それは状況が右翼的硬直を示していたからであり、右翼的に響くとしたら、それは状況が左翼的硬直に陥っているからにすぎない。

山田風太郎は合理主義者である。いや、こと政治問題に関してはギリギリまで合理主義者であろうと努力している人である。にもかかわらず、「戦中派の考える『侵略発言』」という文章の奥には、合理主義ではおさまらない何かが、もう、ほんとうにのどもとのところまで出かかっている。私が「曖昧だ」と感じた二点だけでなく、行間からその何かが、情念がにじみでている。

それは、『戦中派不戦日記』の一九四五年八月十四日の章でたぎり立った情念と、たぶん大もとは同じものだと思う。この夜、山田青年は合理主義のブレーキを手放す。

「吾らは戦う。生きてこの汚辱を子孫に伝えんよりはむしろ全滅することを選ぶ」「今屈しては、維新以来の吾々の祖父や父や兄の血と汗と涙はすべて水泡に帰するではないか」……云々という激越な思いに駆られ、友人と「決起」の具体的行動まで語り合う。

このファナティックな盛りあがりを、私はなぜか笑うことができない。国粋主義というのとは違う、何と言ったらいいのか、「文化の連続性」に命を賭けることの、ある種の美しさすら感じる。個人主義や合理主義というものが、小さく、もの悲しいものに見える――そういう一点というのがあるんじゃないか。山田青年は、この夜、「大和魂」などという空虚な言葉に賭けてでも、その一点に立とうとした……。そんな気がする。

しかし、その山田青年の「劇的な発作」は夜明けとともに崩壊した。「先刻までの昂奮が、まるで自分でも理解できない遠い夢のように思われる。自分が空を飛ぶことを望んだ鶏のように感じられる」「――定石通りだ。と、なぜか僕はそう思った」。

私が山田風太郎という人物を信頼するのは、こういうところだ。「ある一点」を希求しながら、「――定石通りだ」と醒めずにはいられないところだ。「ある一点」を夢みない人間も、「――定石通りだ」と醒めることもない人間も、私は両方とも信頼できない。

さて。山田氏は「戦中派の考える『侵略発言』」の最後で、注目すべき結論をくだしている。

「あの戦争が悪であったかという判断はまだ私にはできない。しかしただひとついえることは、日本には侵略戦争をする資格はなかったのではないかということだ」というのである。

その資格とは、軍事面とか物量面ではなく文化面での資格である。「欧米列強の旧植民地をみるに、もとの宗主国を懐かしがるようなところがわずかながらも感じられるし、また必ず占領地、たとえばハノイにはフランス風の町並みが、大連にはロシアの面影が残っている。つまり街づくりというある種の文化を残している」。それにひきかえ日本の旧植民地にはそういうところは全然ない。つまりは植民地を統治する能力なぞなかったのだ、侵略する資格なぞなかったのだ――というのだ。

猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』(文春文庫)によると、昭和十六年の段階で、すでに敗戦はきっちり読めていたという。若手の官僚やジャーナリストが集まって模擬内閣を作って、戦争のシミュレーションをしてみたら、「だいたい四年ぐらいで負け、最後にソ連が入って来て終わり」という、かなり正確な予測が立っていたという。軍事的物量的には、それほどまでに「資格がなかった」のだ。

おまけに文化的にも「資格がなかった」……。まったくそのとおりではないか。あの戦争はよかった悪かったという議論以前に、戦争をする「資格がなかった」。左右を問わず反対できない結論ではないか。非常におさまりのいい、(下品な言い方をするなら)落としどころという感じがする。

山田氏は、戦後五十年の自問自答の果てに、そういうミもフタもないような回答を持ってきている。政治判断としてはそれが正解だろう。しかし、たぶん、この回答では一九四五年八月十四日のあの「劇的な発作」の意味はまったくこぼれ落ちてしまうだろう。

こんなことは、山田氏自身、そして少数の日本人には戦争中からよくわかっていたことなのではないだろうか。

『戦中派不戦日記』の一九四五年十月一日の章で、山田青年はこう記している。

また戦争中のわれらの思想について想う。戦争中われらは、日本は正義の神国にして米は凶悪の野蛮国と教えられたり。それを信じたるわけにはあらず、ただどうせ戦争は正気の沙汰にあらざるもの、従ってかかる毒々しき、単純なる論理の方が国民を狂気的血闘にかりたてるには好都合ならんと思いて自ら従いたるに過ぎざるのみ。

また吾らは、戦後の日本人が果して大東亜共栄圏を指導し得るや否や疑いいたり(中略)さて勝つとして、日本人が、アングロサクソン、ソヴィエット、独、伊の各共栄圏の各指導民族と比して、果して遜色なきやと疑いいたり。これは単なる科学力文化力のみをいうにあらず、その人間としての生地の力量に対する不安なり。詮じつめれば、日本人の情けなき島国根性なり。

しかれども、吾人はこれに対してもまた、本戦争にともかくもガムシャラに勝たば、而してともかくも大東亜共栄圏を建設して、他の指導民族と角逐(かくちく)すれば、これに琢磨されて島国根性一掃され、闊達なる大民族の気宇おのずから養われんと思いたるのみ。

数十年後の人、本戦争に於いて、われらがいかに狂気じみたる自尊と敵愾(てきがい)の教育を易々として受け入れ、また途方もなき野心を出だしたるを奇怪に思わんも、われらとしてはそれ相当の理由ありしなり。

日本および日本人にむなしい期待をして、そのむなしさをわかりながら、命を賭けた人たちがいた。盲信的なファシストでも、「長いものには巻かれろ」式の人間でもなく、醒めながら、あえて運命に身をゆだねた人たちがいた。山田風太郎が伝えたかったのは、それだと思う。

私もまた、いつか「ある一点」を実感することがあるのだろうか? それとも、生涯「――定石通りだ」とつぶやき続けるのだろうか? 国の運命と自分の運命が激しく絡み合ったとき、私はどう動くのだろうか……?

八月十五日が来ても私は特別に黙禱(もくとう)もしないし、反戦集会にも行かない。私があの戦争に関してずうっと考え続けているのは、山田風太郎から受け取った、そういう謎についてだ。

※ALL REVIEWS事務局注:書評の対象は、山田風太郎「戦中派の考える『侵略発言』」(文藝春秋94年10月号)、『人間万事嘘ばっかり』(ちくま文庫)に収録

【書評初出】
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ぼくらの「侵略」戦争―昔あった、あの戦争をどう考えたらよいのか
  • 著者:宮崎 哲弥,松本 健一,西尾 幹二,小浜 逸郎,呉 智英,福田 和也
  • 出版社:洋泉社
  • 装丁:単行本(372ページ)
  • ISBN-10:4896911857
  • ISBN-13:978-4896911855

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人間万事嘘ばっかり
  • 著者:山田 風太郎
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(425ページ)
  • 発売日:2016-07-06
  • ISBN-10:4480433732
  • ISBN-13:978-4480433732
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