書評

『五重塔』(岩波書店)

  • 2021/08/22
五重塔  / 幸田 露伴
五重塔
  • 著者:幸田 露伴
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(125ページ)
  • 発売日:1994-12-16
  • ISBN-10:4003101219
  • ISBN-13:978-4003101216
内容紹介:
技量はありながらも小才の利かぬ性格ゆえに、「のっそり」とあだ名で呼ばれる大工十兵衛。その十兵衛が、義理も人情も捨てて、谷中感応寺の五重塔建立に一身を捧げる。エゴイズムや作為を越えた魔性のものに憑かれ、翻弄される職人の姿を、求心的な文体で浮き彫りにする文豪露伴(1867‐1947)の傑作。
四、五年前から、にわかに古典落語に興味を持ち、カセットテープを次々に買って、集中的に聴くようになった。夜眠るときはテープをオートリバースにして、繰り返し聴きながら眠る。三日目くらいで、別の新しいテープが欲しくなる。「ヤクがきれた、ヤクが……」と中毒患者みたいな気分になって、テープを買いに走るという日々。

なぜ、いきなり古典落語の世界に溺れてしまったのか、自分でもよくわからない。私から見ると落語の最大の魅力は、一言で言うと「バカの多彩さ」である。人間の愚かさのほとんど全パターンが出そろっているところである。

——というのは冷静に考えたうえでの分析であって、ほんとうはそれ以前の、あの「しゃべり」そのものの魅力に溺れているのである。あの「しゃべり」のリズム、イントネーション、間、言葉遣い……などにたまらない懐かしさと愛着をかきたてられる。

だから、昨年、初めて幸田露伴の短編小説「太郎坊」を読んだときは、「ややっ、出だしは落語の『青菜』みたいな世界だぞ。夏の夕暮れの縁側。打ち水をした庭先。木々から滴が垂れ、そこから通っている涼しい微風……」と思い、「貧乏」を読んだときは、「うーん……このやけっぱち男としっかり女房の関係って『鮑のし』とか『お直し』そのまんまじゃないか」とわくわくした。とびきり上等の落語。

とくに、「太郎坊」には「時のはかなさ」の前でたじろぐ男の気持がみごとに描写されていて、「こんな微妙で漠然とした心の動きをしっかりと文章にして定着してしまうのだから、うーん……小説家というものは、なるほど特殊な才能を持った凄い人間なんだなあ」なあんて、当たり前のことを今初めて気がついたかのように思ってしまった(最近の小説を読んでいて、そういうふうに感心することはめったにないのだ)。

高校時代の日本文学の知識によれば、幸田露伴と言ったら代表作は『五重塔』である。題名からしてお寺関係の分別くさそうな感じがして今まで敬遠して来たが、もしかしてとんでもない誤解だったかもしれない……。と思って、岩波文庫版『五重塔』を読んでみたのだが……いやー、まいったまいった。凄い傑作だ。私、今までこんなに面白く豊かな世界の前を素通りして来てしまったのだから、ものを知らないというのはつくづく罪である。損である。貧しいことである。

教養深い読者の方たちはもちろん御存知と思うが、これは上野のある寺の五重塔建立をめぐって、川越の源太とのっそり十兵衛という二人の大工が相争う話である。

源太のほうは以前にもその寺の本堂や茶室などを立派に仕上げた実績があり、今度の五重塔も当然請け負うべく見積り書まで出してある。ところが、源太の弟子で、腕は確かだが万事のっそりしていて口下手の十兵衛が、「百年に一度一生に一度」という五重塔の大仕事をこの手で仕上げたいという野望を燃やし、寺の「御上人様」にじきじき願い出る。

上人は源太と十兵衛の二人をよんで、あるたとえ話で、私欲を張り合うことのむなしさをほのめかす。

上人の話に深く感じ入った源太は、自分の名声だの兄貴分という意地だのを捨て、思いきりよく、五重塔は自分と十兵衛の二人で共同して建てようと提案する。

落語だったら、これで十分、職人ものの美談に仕上がるところなのだが、露伴はそういう美談では終わらせない。

師匠格の源太がさわやかに筋を通した、弟分の十兵衛からしたら土下座して感謝してもいいような提案を、こののっそり大工は「何(どう)も十兵衛それは厭でござりまする」と一言のもとにはねつける。自分一人で、自分が主でなければ「溝板(どぶいた)でもたゝいて一生を終る」ほうがよっぽどいいと言うのだ。ほとんど愚直と言っていいほどの執着。

このあとも源太と十兵衛の意地の張り合いは、さらにさらに続く。なかなか美談にはまとまらない。

十兵衛のこの意地は、「職人魂」などという美しい言葉では片づけられない、もっと、どうしようもない何か、「魔」とか「業(ごう)」とかいう言葉のほうがふさわしいようなものに思える。それが美しいものなのかおぞましいものなのかはよくわからない、ただ、もう、そういうどうしようもない何かをかかえこんでしまった人間というのがいるものなのだ——。露伴が描きたかったのはそういうことだと思う。十分娯楽的な物語でありながら、深いところまでがっしり踏み込んだ小説だと思う。

紙数が尽きてしまったので詳しく書けないのが残念だが、最近見た映画『クライング・ゲーム』のサソリとカエルのたとえ話の、“性(さが)だからしようがなかったんだ”というセリフを思い出す。英語では確か性(さが)をnatureと言っていた。

若い頃に『五重塔』を読んだら、たぶん私は壮絶な職人美談として読んだだろう。今は、ある人間のどうしようもないnatureの物語に読める。「魔」のようなものを描きながら、源太という倫理的で垂直的な志向の人間を配したところに、一貫してすがすがしい味わいがある。

【この書評が収録されている書籍】
アメーバのように。私の本棚  / 中野 翠
アメーバのように。私の本棚
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(525ページ)
  • 発売日:2010-03-12
  • ISBN-10:4480426906
  • ISBN-13:978-4480426901
内容紹介:
世の中どう変わろうと、読み継がれていって欲しい本を熱く紹介。ここ20年間に書いた書評から選んだ「ベスト・オブ・中野書評」。文庫オリジナルの偏愛中野文学館。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

五重塔  / 幸田 露伴
五重塔
  • 著者:幸田 露伴
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(125ページ)
  • 発売日:1994-12-16
  • ISBN-10:4003101219
  • ISBN-13:978-4003101216
内容紹介:
技量はありながらも小才の利かぬ性格ゆえに、「のっそり」とあだ名で呼ばれる大工十兵衛。その十兵衛が、義理も人情も捨てて、谷中感応寺の五重塔建立に一身を捧げる。エゴイズムや作為を越えた魔性のものに憑かれ、翻弄される職人の姿を、求心的な文体で浮き彫りにする文豪露伴(1867‐1947)の傑作。

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初出メディア

月刊Asahi(終刊)

月刊Asahi(終刊) 1993年9月号

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