解説

『フロム・ヘル [新装合本]』(みすず書房)

  • 2019/11/08
フロム・ヘル [新装合本] / アラン・ムーア
フロム・ヘル [新装合本]
  • 著者:アラン・ムーア
  • 翻訳:柳下 毅一郎
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:コミック(592ページ)
  • 発売日:2019-11-11
  • ISBN:4622088592
内容紹介:
鬼才ムーアが完成度の高さを自負する傑作。切り裂きジャックの切っ先から英国社会の暗流がほとばしり出る超高密度のサスペンス。
切り裂きジャック事件の「真相」を描き、大きな話題を呼んだアラン・ムーアのコミック『フロム・ヘル』。初版刊行からちょうど10年後の[新装合本]刊行に際し、訳者の柳下毅一郎氏による解説をお届けする。

Murder, Myth & Magic

アメコミの革新者、二十世紀屈指の文学者、現代の魔術師……アラン・ムーアにはいくつも顔がある。欧米コミック界でもっとも尊敬され、もっとも恐れられている天才。それがアラン・ムーアだ。ここにお届けする『フロム・ヘル』はそのムーアのすべてが詰まった代表作にして、みずから「大いに誇りにしている達成」だという作品である。アラン・ムーアとはいかなる人間で、『フロム・ヘル』は何を目指した作品だったのか。

アラン・ムーアの名前が世界のコミック・ファンにとって忘れがたいものになったのは一九八六年に発表した『ウォッチメン』のおかげである。ムーア作、デイヴ・ギボンズ画の『ウォッチメン』のアメリカには、マスクをかぶったヒーローたちがいた。だが、彼らの自警活動は法律で禁じられている。スーパーマンやバットマンのような、法律の枠を越えて悪を罰する存在は社会の敵と認定されているのだ。この衝撃的な設定の元、核戦争の危機に瀕した世界でのヒーローたちの苦闘が描かれる。『ウォッチメン』の世界では人は死に、スーパーヒーローは死ぬ。『ウォッチメン』は「はじめての大人が読めるスーパーヒーロー・コミック」と大いに喧伝され、フランク・ミラーの『ダークナイト・リターンズ』などと共に「アメコミの暴力の八十年代」を作りあげた。だが、ムーアは自作のそうした受け止められ方には不満だった。『ウォッチメン』が真に革新的だったのはそのストーリーの語り方、非線形のストーリーテリングと多重的な意味の重ね合わせだったからである。語りの革新性に比べれば中身などたいしたことはない。
『ウォッチメン』は一つのページが九分割され、九つのコマが並んだページ構成になっている。だが、その九つのコマはただの挿絵ではない。手前で吹き出しつきで喋っているメイン・キャラクターの奥に別な人物がおり、その人が立っている壁には落書きがある。別なストーリーにおいてはその別な人物が、その壁の落書きこそが主役となる。現実には無意味な人間などいないし、無駄なエピソードなどない。すべての人が物語の主人公だ。それをコミックにおいて実現したのがムーアの多層的ストーリーテリングだった。『ウォッチメン』においては、すべてが同時におこる非時間の語りを実現する第四章「時計職人」、語りそのものが中央からの折り返しとなっている第五章「恐怖の対称形」で、ムーアの語りのテクニックは頂点に達する。
『フロム・ヘル』においてもムーアの語りの技は存分に披露される。第四章におけるガルの長広舌に目をくらまされたかと思うと、まったく科白のない第十章では絵だけで殺人者の内面を体感させてみせる。切り裂きジャックの殺人をいくつもの意味が重ね合わされたものと読み解くのみならず、それを表現するために知識と技をおしみなく投入する。「わたしはこれではじめて物語の中にどれほどの密度、どれほどのスケールを入れられるか学んだのだ」とムーア自身に言わしめたほどの密度は、余人には到底真似できぬものである。

ムーアが殺人をテーマにしたコミックを書こうと考えはじめたのは『ウォッチメン』を完成させた直後、一九八六年ごろだという。『ウォッチメン』からもっとも遠いものをやるべきだと考えたムーアは、スーパーヒーローも出てこず、アメリカを舞台にしていないコミックを構想した。それが殺人である。当初、ムーアは「すっかり調べ尽くされ、やり尽くされている」切り裂きジャックを取りあげるつもりはなく、三十年代に妻と小間使いを殺害したバック・ラクストン博士の事件あたりを材料にしようと考えていたという。だが、一九八八年、切り裂きジャック百周年の年に出版された大量の切り裂き魔文献を渉猟するうち、ムーアはスティーブン・ナイトの『切り裂きジャック 最終結論』に出会う。「スイス時計のように精巧に組み立てられている」ナイトの理論に深く感銘を受けたムーアは、切り裂きジャックをめぐる物語を構想しはじめる。だが、それはアガサ・クリスティー的な“フーダニット”ではなかった。ダグラス・アダムズのDirk Gently's Holistic Detective Agencyからヒントを得たムーアは、殺人の謎を解くために全宇宙の謎を解くようなミステリを考えた。切り裂きジャックの連続殺人の中に全宇宙が包含されているのを見たのである。キリスト以前からつらなる異教の伝統と二十世紀のはじまりを。そこにはエレファントマンからアレイスター・クロウリーまでヴィクトリア時代ロンドンを彩るさまざまな有名人、ニコラス・ホークスムア、フリーメイソン、黒魔術をめぐるさまざまな伝承が詰め込まれている。
ムーアの非凡さは、切り裂きジャック事件が「調べ尽くされている」からこそ、フィクションを紡ぎ出せると考えたところにある。ムーアは切り裂きジャック事件に関するあらゆるディテールを調べあげた。すべての証言、わかっているかぎりの証拠を並べあげ、そのどれとも矛盾しない説をこしらえて見せたのである。ムーアの語る切り裂きジャック事件の「真相」が間違っているとは、誰にも断言できないはずである。ムーアはエレガントな「真相」の中にひとつの宇宙を詰め込んでみせたのだ。

ムーアは独立独歩の人である。
一九五三年、イングランド中部のノーサンプトンで、労働者階級の子供として生まれたムーアは、十七歳のときに校内でLSDを販売して放校になる。その後は精肉工場での羊の皮剥ぎをはじめ肉体労働を転々とするが、やがて英国のコミックに投稿したシナリオが認められてコミック・ライターとなる。ちゃんとした教育を受けているわけではないので、神話や伝説、魔術についての知識はすべて個人的な読書を通じて身につけたものだ。その読書は広範かつ深く、ムーアの幅広い作風を支える土台になっている。SFもコミックも魔術も同じレベルで重要なものだったのだ。

ムーアは熱狂的なSFファンであり、六十年代のSF雑誌New Worlds誌の愛読者でもあった。ムーアが好む非線形の語りはNew Worldsに集ったJ・G・バラードらニューウェーヴ作家たち、そのアイドルであったウィリアム・バロウズから影響を受けたものである。ムーアのSFファンぶりは英国で2000A.D.などで書いていたSFコミックに、そして『ウォッチメン』に結実する。一方、魔術と神話に対する興味が生みだしたのがSwamp Thingである。英国からアメリカのDCコミックに招かれたムーアは、植物人間を主人公にした古ぼけたホラー・コミックSwamp Thingをまかされると、地球規模の環境問題をテーマにしたファンタジー・コミックに作りかえた。ムーアがSaga of the Swamp Thingmにおいて試みた文学的ファンタジーは、ニール・ゲイマンの『サンドマン』をはじめとする多くのファンタジー・コミックに道を拓いた。
そしてもちろんムーアは熱狂的なコミック・ファンでもある。ノーサンプトンで過ごしていた幼年期、コミックの中に描かれるニューヨークの摩天楼は、ムーアにとってはあこがれの未来都市に見えたという。そのあこがれを保ちつづけたムーアは、DCやマーベルの経営者とたびたびトラブルを起こし、絶縁しながらも『バットマン:キリング・ジョーク』やWhatever happened to Man of Tommorw?などといった名作を残している。近年でもスーパーヒーローばかりが住む街の警察のドタバタを描いた『トップ10』やヴィクトリア時代のフィクションの登場人物が一堂に会する『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』などで、スーパーヒーローたちへの愛を吐露している。
『フロム・ヘル』や、文学史上に残る三人の少女キャラクターたちの性的冒険を描いたLost Girlsでは、ムーアは過去の経験と知識をすべて投入し、コミック表現の限界を押しひろげようとする。ムーアはすでに単なる「コミック原作者」ではなく、二十世紀を代表する文学者なのだ。オンライン文芸誌The Salonでははトマス・ピンチョンやドン・デリーロにも比肩されているほどだ。二〇〇五年、〈TIME〉誌の選定するオールタイムベスト小説百選には、コミックとしてはたった一作『ウォッチメン』が選ばれた。

『フロム・ヘル』第四章の十八ページで、ロンドンにまつわる神話を開陳するウィリアム・ガルは「議論の余地なく神々が存在する場所、それは我らの精神の中だ」とネトリーに向かって語る。この科白を書いたとき、ムーアは「この言葉が本当であっていけないわけはあるまい。そしてもしこれが真実なら、それにあてはまるかたちで自分の人生を変えることができるはずだ」と感じたという。四十歳の誕生日、ムーアは魔術師になることを決めた。魔術とは何か。その数ページあとでガルは「魔法を、意志を実現させる行為と考えよう。我らの内密なる夢想を具現化し、世界に影響力をおよぼす行為だと」と語る。魔法とは、自分の意志を世界に刻印することである。呪文--言葉を使って。呪文によって人の精神を動かし、人を動かすことで現実を書き換える。つまり、作家の創作行為こそが魔術に他ならないのである。
だが、それだけなら言葉を言い換えただけである。ムーアはただのファッションで魔術師と名乗っているわけではない(もじゃもじゃに伸ばした髪を振り乱し、指には髑髏の指輪をはめ、かかとまで届くマントを羽織った姿は充分に悪魔的だが)。ムーアは言葉の真の意味で魔術を実践している。アレイスター・クロウリーに私淑するムーアはサイケデリック・ドラッグを使った儀式をおこない、古代の神を召喚する。ムーアが帰依しているのはローマで二世紀頃信仰されていた蛇神グライコンだが、これは実はスネーク・オイル屋が宣伝のために作ったダミー人形だという。「鰯の頭も信心から」を地で行っているが、ここまで来るとどこまでが冗談で、どこから本気なのかさっぱりわからない。だがムーアはいたって本気だ。儀式によってトランス状態に入り、蛇神と対話してアイデアを得ている。実際、Prometheaなど近作の中には魔術によって得たインスピレーションに従って書かれたエピソードも数多いという。
「わたしは昔からブライアン・イーノの理論に共鳴している。機械工なら、車が動かなくなったとき、フードの下に何があるか知りたくなるはずだ、というんだ。わたしは書くことで生計をたててるんだから、創造のプロセスがどうなっているのか、理解しておくことは大いにアドバンテージになる。ただひとつ、問題は、それをはじめたとたん、実質的に科学と理性の端から降りなければならなくなるんだよ」
理性の外にあるものを汲みあげる創造プロセス、それこそがムーアの魔術なのである。

[書き手]柳下 毅一郎
映画評論家、英米文学評論家。1963年生まれ。訳書にR・A・ラファティ『第四の館』(国書刊行会)、キャサリン・ダン『異形の愛』(河出書房新社)、〈J・G・バラード短編全集〉(共訳 東京創元新社)など。著書に『新世紀書評大全 書評1990-2010』(洋泉社)、『皆殺し映画通信』(カンゼン)など。編書に『女優 林由美香』(洋泉社)など。
フロム・ヘル [新装合本] / アラン・ムーア
フロム・ヘル [新装合本]
  • 著者:アラン・ムーア
  • 翻訳:柳下 毅一郎
  • 出版社:みすず書房
  • 装丁:コミック(592ページ)
  • 発売日:2019-11-11
  • ISBN:4622088592
内容紹介:
鬼才ムーアが完成度の高さを自負する傑作。切り裂きジャックの切っ先から英国社会の暗流がほとばしり出る超高密度のサスペンス。

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