解説

『樋口一葉』(筑摩書房)

  • 2021/11/23
樋口一葉  / 樋口 一葉
樋口一葉
  • 著者:樋口 一葉
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(470ページ)
  • 発売日:2000-09-01
  • ISBN-10:4480101578
  • ISBN-13:978-4480101570
私は一葉が好きだが、ただもう楽しんでいるだけで研究的情熱には乏しい。詳しいわけでも何でもない。だから「解説」といったものは書けないのだが、その魅力については少し語れると思う。いや、語りたいと思う。

特に、「大つごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」――この五篇。明治二十七年(一葉、二十二歳)から明治二十九年(二十四歳)にかけて書かれたこの五篇を読むと、見ず知らずの人の袖をつかんで「ねえねえ、読んで読んで」と言いたくてたまらなくなる。誰かれ構わず一葉を読む快感を共有したくなる。この五篇を生み出した時期が「奇蹟の十四カ月」と呼ばれているのも、もっともなことだと思う。

「大つごもり」「わかれ道」

言葉、言葉、言葉だ。何と言っても文章がすばらしい。

この全集で「闇桜」「うもれ木」「琴の音」「やみ夜」と読み進んで来た人は、「大つごもり」に至って、一葉の作風がガラリと変わっていることに驚くだろう。それまでの小説は(「うもれ木」はやや異色とはいえ)いかにも明治の「閨秀作家」らしくロマンティックだったのが、「大つごもり」になると俄然、リアルで下世話な貧乏話になる。カネをめぐる話、金銭小説だ。

「大つごもり」の冒頭に登場する「受宿(うけやど)の老媼(おば)さま」のセリフに、まず、しびれる。

「機嫌かい」だの「目色顔色」だの「お前の出様(でよう)一つで」だの。何と面白く含みのある表現なのだろう。何と素敵に俗っぽい日本語なのだろう(今は亡き大女優・杉村春子が演じたらさぞかし、と思わせる)。

ヒロインお峰の叔父「正直安兵衛」の貧窮ぶりを「だんだんに喰べへらして天秤まで売る仕義」とほとんど一言でキメてしまうところなぞも鮮かなものだ。こういう、生活の厚みを感じさせる表現がたたみこまれ、手垢のついた俗語も、大胆にとり入れられている。

下世話なのだが、不思議と下品ではない。品格がある。くどいようだが、素敵に俗っぽいのだ。この不思議さに惹かれて、ぐいぐいと読まされてしまう。

これが一葉なのだ、と私は思う。王朝女流文学的教養も技術もたっぷりと持ちながら、一葉はロマンティシズムに溺れることができなかった。紫式部というより西鶴的体質の人なのだった。夢みる才能よりもみつめる才能のほうが強かった。「大つごもり」を生み、以後、確固とした一葉的世界を生み出した契機は、たぶん、リアリストとしての自覚だったのではないかと思う(たぶんその背景には、上流のお嬢さまが多かった歌塾「萩の舎」に対する異和感や、海外の新文学に詳しい『文學界』の青年たちからの影響があったのだろう)。

以前は気がつかなかったことだが、今回「わかれ道」を読み直して、驚いた。これは怪小説だ。何しろ、全体の八割、いや九割が会話で占領されているという小説なのだ。試しに赤鉛筆(でなくてもいいが)で会話部分に傍線を引いてみてもらいたい。ほとんどページごとマッカになってしまうはずだ。となると、普通は戯曲ということになるわけだが、これがちゃんと小説になっているという不思議。地の文に会話を自在に織り込めるという文語文の強みを最大限に活用した、ほとんど実験的な小説のように思える。

この小説のどこでもいい、例えばヒロインお京の「それでも吉ちやん私は洗ひ張に倦きが来て、もうお妾でも何でもよい、どうでこんな詰らないづくめだから、いつその腐れ縮緬着物(脚注=身を落として楽をすること)で世を過ぐさうと思ふのさ」というセリフ、お京を慕う傘屋の吉の「何だ傘屋の油ひきになんぞ、百人前の仕事をしたからとつて褒美の一つも出やうではなし」というセリフを読むのは何とも言えない快感だ。やけっぱちな辛さが身にしみると同時に、生活言葉の妙があって、私は、わくわくと胸を躍らせてしまうのだ。

それともう一つ。「わかれ道」に限らず、一葉の小説を読んでいて気持がいいのは、登場人物たちが(教育のない貧乏人といえども)敬語をきちんと使いこなしていることだ。卑屈になっての敬語、というより他人との間につねに適正な距離を保つというところから発達したとおぼしき敬語つかい。悪態と敬語の両方が発達しているのが都会文化というものだろう。そういう意味で、一葉文学はある時期の都会文化の粋(すい)だと思う。

「たけくらべ」

「大つごもり」に続く「たけくらべ」。最高。何度読んでも面白く、読むほどに面白みが深くなる。

私が「たけくらべ」を最初に読んだのは高校時代で、驕慢な美少女・美登利に完壁に一体化してしまった。雨の中、下駄の鼻緒を切らして困っている信如に友禅縮緬の切れ端を投げ出す、あの有名なクライマックス場面にドキドキと胸をときめかした。

(美登利は)格子の間より手に持つ裂(き)れを物いはず投げ出せば、見ぬやうに見て知らず顔を信如のつくるに、ゑゝ例の通りの心根と遣る瀬なき思ひを眼に集めて、少し涕(なみだ)の恨み顔、何を憎んで其やうに無情そぶりは見せらるゝ、言ひたい事は此方にあるを、余りな人とこみ上るほど思ひに迫れど……

というくだりである。鼻緒代わりの切れ端を渡すという、どうってことない事柄に賭けられた二つの心の緊迫感(サスペンス)が、差し迫って来る。恋愛のとば口の、互いの心の謎部分に踏み込んで行く恐怖と不安がみごとにとらえられている。

やっぱり十代のウブな心の中で出会った作品の力は大きい。私にとってはこれが、恋愛小説の原点(あんまりいい言葉ではないが)のようになってしまったのだ。

その頃の私は、美登利・信如の初恋部分にばかり興味が向かっていたのだが、大人になって読み返してみると、美登利・信如ばかりではなく質屋の正太郎や横町の三五郎など、子どもたちの生活背景の描写のほうが数段面白く、味わい深い。生活背景から来る、子どもたちそれぞれの屈託も一葉はみごとに描き分けている。

一葉の描き出した子どもたちの世界は、大人たちの世界から切り離された純粋無垢なものでは全然ない。大人たちの世界が深く影を落としている。その影は、千束神社の祭り(盛夏)から大鳥神社の酉の市(暮)までの半年の間に急激に濃密なものになって行く。

若い頃の私は信如という少年を勝手に美化して、理知的で潔癖な少年のように思い込んでいたのだが――一葉はハタチそこそこで、まったく苦味走ったリアリストだ――信如の潔癖さの裏に、寺の者にしては生ぐさい両親に対する引け目や反発があることを周到に書き込んでいる。目をこらして読めば、信如はほとんど小心者の少年である。だからこそ、やがてはおいらんになる運命の美登利に対する矛盾した気持(惹かれてゆく気持と忌避しようという気持)にも納得がゆくのだ。

読めば読むほど、正太郎・三五郎の描写が面白くなって来る。

金持だが近所では嫌われ者のお祖母さんと淋しく暮らす正太郎。美登利を慕い、筆屋のおばさんにからかわれると、「そんなことを知るものか、何だそんなこと、とくるり後を向いて壁の腰ばりを指でたたきながら、廻れ廻れ水車を小音に唱ひ出す」といういじらしさ(そのあとの「美登利は衆人の細螺(きしゃご)を集めて、さあもう一度はじめからと、これは顔をも赤らめざりき」という一行も、すれ違う二人の心をあっさりとらえていて鮮かだ)。

横町に住みながら親子ともども表町の正太郎の家に世話になっているため、横町組からは「二股野郎」となじられ、踏んだり蹴ったりの目にあいながら、親にも言えず、じいっと一人で耐えている三五郎。「口惜しさを噛みつぶして七日十日と程をふれば、痛みの場処の愈(なお)ると共に其うらめしさも何時しか忘れて、頭の家の赤ん坊が守りをして二銭が駄賃をうれしがり……(略)何時も美登利と正太が嬲りものに成つて、お前は性根を何処へ置いて来たとからかはれながらも遊びの中間は外れざりき」という、いじらしさ。子どもを描かせると、一葉の筆はひときわ冴える。子どもと、それから世間臭たっぷりのおばさんね。

美登利は吉原で権勢をふるう姉を無邪気に自慢し、わけもわからずに「龍華寺はどれほど立派な檀家ありと知らねど、わが姉さま三年の馴染に銀行の川様、兜町の米様もあり、議員の短小(ちい)さま根曳して奥さまにと仰せられしを、心意気気に入らねば姉さま嫌ひてお受けはせざりしが、あの方とても世には名高きお人と遣手衆の言はれし……」などと息巻く程だったが、やがて別人のようにおとなしく、孤立し、憂愁に閉ざされてゆく(この変貌の理由に関しては、①初潮説②初店説③水揚げ説とあるらしいが、私にはどうでもいい。とにかく美登利は大人の〈性〉と直面したのだ)。

かくして、信如は京都の坊さん学校へ、美登利は吉原の廓のうちへ。大人社会の「聖」と「俗」、それぞれの影の中へと姿を消して行く。みごとな構成だと思う。

「廻れば大門の見返り柳いと長けれど……」という冒頭から、私はするするとこの幻の町の中へ引き込まれてしまう。

「十三夜」「にごりえ」

「十三夜」は、明治時代らしい古風な悲劇である。高校時代に初めて読んだ時から、すでにして私にとっては遠い世界の話。「自由」「自我」「個性」といった言葉を美しいものと信じて疑わない女子高生にとっては別世界の話だった。お関の父親の「同じく不運に泣くほどならば原田の妻で大泣きに泣け」という新派調の言葉の重さはわからなかった。

にもかかわらず、なぜか忍従の女・お関は私の心の中に好もしく美しい女として棲みついた。「快楽」と「幸福」を同一視する、いわゆる「進歩的」な女たちよりも、お関のような女のほうがよっぽど上等だという確信があった。その根拠を私は長い間説明できなかったけれど、今なら、少し説明できる。人間社会は百年たとうが千年たとうが変わらない。その時代その時代の不幸があるだけだ。ある時代の不幸をもし「運命」と呼ぶならば、ある一個人の生の美しさは「運命」をどれだけ自分の意識的なものとして生きられるか、ということなのだ。

お関の時代にはまばゆいものであったに違いない「自由」「自我」「個性」という言葉が、今や逆に女の人たちを苦しめている。そういう言葉の先に荒涼空漠たる風景が広がっていることに気づき始めている……。

なあんて、私としては苦手な「女の生き方問題」に触れてしまった。面白くないですね、こういう話は。どこまで行っても一般論になっちゃって。どうも、「十三夜」という小説には、「女の生き方問題」と絡めて語らせたがるところがある。私としては、ただもう、一葉の、下世話に美しい文章に酔っていたいだけなのだけれど。

初めて読んだ時にもちょっと腑に落ちない感じがしたのだが、一葉はなぜこの後、お関と録之助との再会話をつなげたのだろうか。「十三夜」はお関という女が「娘であること」から訣別する話である。前半では父親から説得されて理性的に訣別の意を固めるのだが、後半では録之助と出会ったことからつくづくと有為転変の思いをかみしめ、感情的にも訣別して行った――ということだろうか。それとも、原田の家に嫁いで精神的には被害者と思い込んでいたお関が、実は一方では一人の男の運命を狂わせる程の加害者だった――ということだろうか。

二部構成の意図が私にはいまだにわからないのだけれど、大人になって読み返すと落魄の録之助という人物像に妙に興味を惹かれる。やけっぱちな、あとは野となれ山となれ式の、非建設的メンタリティの男(一葉言葉で言えば「無茶助」ね)。「大つごもり」の石之助も「にごりえ」の源七もこの型の男である。

たいした根拠もなく言うのだが、私には彼らは「江戸っ子」の一典型のように思える。血の中に庶民的ニヒリズムを抱えている男。イズムというほど御大層なものではなく、生活感情の根本に虚無的なものが流れている男。それは江戸以来の消費社会の産物であったかもしれない。一葉はどこからこういう男のイメージをつかんで来たのだろうか。すぐ上の兄・虎之助からだろうか(幼い頃から不良少年で、のちに陶工になったが、樋口家から勘当された)。

もう一つ。もしかすると少々深読みになるかもしれないが、お関の実家が上野、嫁ぎ先が駿河台というのも注目される。つまり、お関は明治東京の下町育ちで、山の手へ嫁いだのだ。両親は幕末には江戸幕府の下級武士で、明治の初めには下級官吏だったと思われる。その娘のお関は、新興勢力で羽振りのいい山の手へと嫁いだ。実家と婚家との間には貧富の差だけでなく、新旧のカルチャーギャップも大いにあったのだろう。明治時代の人は、上野から駿河台というだけで、そういうニュアンスまで察して読んだのではないかと思う。また、お嬢さまが多かった「萩の舎」での一葉の異和感も投影されていたのではないかと思う。

それから、どうでもいいことだが……「十三夜」の前半部分は名人・桂文楽(先代=八代目)が得意とした落語「かんしやく」によく似ている。「かんしやく」の作者は益田太郎冠者である。三井財閥大番頭の御曹子にして帝劇の初代支配人で喜劇やコミックソングの作者としても活躍したという大変興味深い人物である。「十三夜」にヒントを得て作った噺だろうか。たんなる偶然かもしれないが、樋口一葉―益田太郎冠者―桂文楽という連想を、私はかなり気に入っている。

さて、高校時代に読んだ時には全然納得できなかったが、その後じわじわと好きになったのが「にごりえ」だ。

結末のお力・源七の死に関しては、大ざっぱに言うと①合意心中説と②無理心中説があるようだが、私は、どちらとは深く考えない。お力と源七は、どこか似た者同士で、お互いの心の中の最も淋しい部分で惹かれ合っているので、いっしょになれば世間に背を向け、死へとなだれ込むような結末しか考えられない――と思うだけだ。

一種の「腐れ縁」。初めて読んだ時は、なぜ金持で物分かりもよく情もこまやかな結城朝之助のほうに走らなかったのかとじれったかったが、大人になってみればわかる、腐れ縁というばかばかしくも美しい(かもしれない)恋もあることを。私は成瀬巳喜男監督、高峰秀子・森雅之主演の『浮雲』(’55年)を腐れ縁映画の一大傑作と思う者であるが、「にごりえ」にはそれと似た感触がある。

この小説の中で、私が今、読んで最も面白く、一葉の凄さが発揮されているなあと思うのは、源七の女房・お初を描写しているところだ。身なりも構わず内職に精を出す、そのしぐさや顔つきがありありと目に浮かぶ。一葉は働く人間の姿、家事をする人間の姿を描写するのがとてもうまいと思う。特に、お初が「苦労らしく目をぱちつかせて」というところが好きだ。この一言でお初という女のすべてがわかったような気になってしまう(映画『にごりえ』では杉村春子がお手のものの名演)。

読んで愉しいというものでもないけれど、「にごりえ」の中盤、お力が家を飛び出し、雑踏の中で「広野の原の冬枯れを行くやう」な狂おしい気持になるくだりが興味深い。意表をつく。ほとんど実存的と言っていいような心理描写じゃないか。一葉という女が、すぐそこにいる人に感じられる。

日記

一葉は小説を書くのとほとんど同じくらいの熱心さで日記を書いていた。十五歳から二十四歳までの約十年間につけていた日記は五十数巻にも及ぶ。だから、ここに収録したのは、ほんとうにほんとうにごく一部なのだ。

それでも恋人(片想いだったが)半井桃水との出会い、桃水への思いと職業作家への夢に昂揚した雪の日、「たけくらべ」のもととなった駄菓子屋経営の日々、『文學界』の青年たちとの交流――などハイライト部分は伝えることができたと思う。

一葉は実生活部分もたいへん興味深いうえに膨大な日記が残っているため、その実像に関しては非常に詳細緻密な研究がなされているようだ。最初に書いたように私は研究的情熱に乏しいので一葉関連文献はほんの数冊しか読んでいないのだが、その中では、作家にして熱心な一葉研究者だった和田芳恵の『樋口一葉』(講談社現代新書)、『一葉の日記』(講談社文芸文庫)、それから学生時代に一葉と親しく接した平田禿木の『文學界前後』(四方木書房、昭和十八年のもので今は入手困難かもしれない)が面白かった。

私が一葉の日記を読んで最も興味を惹かれたのは、『文學界』の青年たち(禿木、孤蝶、眉山、秋骨ら)や斎藤緑雨との交際部分だ。「辛ロコラムニスト」の元祖と言うべき緑雨と初めて会った日、一葉はこんなふうに記している。

この男、かたきに取てもいとおもしろし。みかたにつきなば猶さらにをかしかるべく、眉山、禿木が気骨なきにくらべて、一段の上ぞとは見えぬ。逢へるは、たゞの二度なれど、親しみは千年の馴染にも似たり。当時の批評壇をのゝしり、新学士のもの知らずを笑ひ、江戸趣味の滅亡をうらみ、其身の面白からぬ事をいひ、かたる事四時間にもわたりぬ。

緑雨は一葉を「皮肉な女」と見た。そして「にごりえ」以後の小説はみな「泣きての後の冷笑」と喝破した。

一葉はそれまでの「閨秀作家」とは違い、小説で生計を立てる、女で初めての職業作家だった。そして同時に……私は「初めてのガールフレンド」だったとも思う(英語ではなく日本語のニュアンスでのガールフレンド)。

禿木は一葉の印象を「色浅黒く、髪は薄く少し赤味がかつてゐて、それをぎゆつとひつつめに結つてゐ、盛装などとても似合ふ柄ではなく、唯興に乗じ、熱し切つて談じるといふ際は、その眼がとても美しく、魅するやうに輝くだけであつた」と、何だかガッカリさせられることも書いているが、また、「一と度興に乗じると、老妓、女将そつち退けの大気焔をあげるのが一葉君であつた」「我我はしつきりなし其処(一葉宅)へ立ち寄つたけれど、これも結局フランスでいふサロンのやうなもので才操(ママ)豊かな女史を取り囲んで、その潑剌たる談話、警句に聴き惚れた」とも書いている。

恋人でも妻でも妾でもなく、同志的な女友だち。明治の女・一葉はそんなポジションを創りあげた初めての女でもあったと思う。

映画

最後に、一葉に関連した映画についてもメモしておきたい。私が知る限りでは次の三本がある。

●『にごりえ』(’53年)今井正監督
当時としては珍しいオムニバス形式。文学座の俳優たちが総出演している。配役は、
第一話・十三夜 お関(丹阿弥谷津子)、録之助(芥川比呂志)、お関の父(三津田健)、母(田村秋子)
第二話・大つごもり お峰(久我美子)、石之助(仲谷昇)、お峰の叔父(中村伸郎)、叔母(荒木道子)、店の内儀(長岡輝子)
第三話・にごりえ お力(淡島千景)、源七(宮口精二)、源七の妻(杉村春子)、結城朝之助(山村聡)

今井正監督と文学座という組み合わせから全体に生硬な感じがあるが(特に第一話)、第二話は小さなリスのような久我美子がういういしく、カメラワークも面白い、久保田万太郎監修なのにお峰の話し言葉が「――ですわね」「――ですわ」という調子なのが少し気になる。若き日の岸田今日子がチラリと姿を見せるのにも注目。第三話は淡島千景のお力がすばらしい。崩れた色気があるうえに、表情やしぐさの変化に見ごたえがある。全体に原作に忠実に作られている。三本の一葉関連映画の中で最も完成度が高い。

●『たけくらべ』(’55年)五所平之助監督
美空ひばりの映画出演五十本記念大作。名匠と言われた五所監督で、脇に山田五十鈴を持って来たという意欲作だったが、歌わないひばり映画にひばりファンはソッポを向き、興行的にはふるわなかったという。配役は、美登利(美空ひばり)、信如(北原隆)、正太郎(市川染五郎)、筆屋のおかみさん(山田五十鈴)、美登利の姉(岸恵子)。

ひばりは動きもセリフもよく、好演しているが、ビジュアル的にはちょっとツライものがあった(信如役の北原隆も)。美登利の姉でおいらん大巻に扮した岸恵子が綺麗。筆屋のおかみ山田五十鈴が、いやー、吉原の毒気を全身ににじませて、巧いというかコワイというか。原作とは違って、この筆屋のおかみが大きな存在に据えられている。正太郎役の市川染五郎(今の松本幸四郎)は当時十三歳、映画初出演。見ものです。

●『樋口一葉』(’39年)並木鏡太郎監督
一葉の生活と作品をないまぜにしてドラマ化したもの。「大つごもり」「たけくらべ」「十三夜」が大胆に脚色されて織り込まれている。配役は、一葉(山田五十鈴)、半井桃水(高田稔)、美登利(高峰秀子)、若旦那(北沢彪)、お柳(沢村貞子)。

何と言っても山田五十鈴(当時二十二歳!)と高峰秀子(当時十五歳!)、この大女優二人の芝居が見もの。演出のテンポはあまりよくなくてじれったい。この映画では一葉とその妹は美人姉妹ということになっている。お歯黒どぶ、はね橋、角海老の時計塔……和洋折衷の明治の吉原のセットも面白い。

【この解説が収録されている書籍】
アメーバのように。私の本棚  / 中野 翠
アメーバのように。私の本棚
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(525ページ)
  • 発売日:2010-03-12
  • ISBN-10:4480426906
  • ISBN-13:978-4480426901
内容紹介:
世の中どう変わろうと、読み継がれていって欲しい本を熱く紹介。ここ20年間に書いた書評から選んだ「ベスト・オブ・中野書評」。文庫オリジナルの偏愛中野文学館。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

樋口一葉  / 樋口 一葉
樋口一葉
  • 著者:樋口 一葉
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:単行本(470ページ)
  • 発売日:2000-09-01
  • ISBN-10:4480101578
  • ISBN-13:978-4480101570

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