書評

『0をつなぐ』(新潮社)

  • 2020/02/02
0をつなぐ / 原田 宗典
0をつなぐ
  • 著者:原田 宗典
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(196ページ)
  • ISBN-10:4101254222
  • ISBN-13:978-4101254227
内容紹介:
ごくありふれた日常生活の風景にふと顔をのぞかせる不安や違和感を題材に、都市に住む人間の乾いた心理を映す13編。あなたもよく感じている“奇妙な感じ”を描く短編集。
いつのまにか文学のなかに知らない領域が生まれているように感じることがある。

いとうせいこうの『ノーライフキング』、矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴』(いずれも新潮社)を読んだ時、そんな気がした。そうして原田宗典の『0(ゼロ)をつなぐ』の場合もそうだった。勿論、三人は全く違う個性と文体を持っている。にもかかわらずそういう感じがした。

この十三の短篇は扉に載っている「一列にゼロをつなげば、簡単に鎖ができる」というレッツの言葉が示しているように、抽象的に言えば現代における生の不確かさを主題にしている。かといって、この作品は不条理劇のように難解な文章や発想が並んでいるのではない。むしろ逆である。意図された軽さのなかに、この不条理の主題が、ある時はコミカルに、ある時はオカルト的に、そして時にはミステリータッチで描かれているのである。

どの作品にも、混み入った人間関係は登場しない。

せいぜい男の主人公と相手の二人、その相手は女性とは限らないが、その二人のあいだには通常社会的な関係と見做されているようなやりとりは結ばれない。大袈裟にいえば、社会は存在しないのである。それだけぼんやりとした気怠い空気が漂ってくる。この作品を読んでいくと、読者は今日のわが国には社会がなかったことに気付かされる。おそらく、この小説集の魅力は、そうした負(ふ)のリアリティにあるのかもしれない。男と女の関係にしても、二人のあいだに熱烈なコミュニケーションは生じない。過去に別れている場合も、別れた理由ははっきりしない。理由らしいものは文章としては出てくるが、読者の習慣を考慮して無理につけられた、という感じで、リアリティを与えようとする意図は放棄されている。

しかし、街の佇いや喧騒まで消されているのではない。それは、主人公の背後を遠い潮騒のように流れている。また、彼はそうした賑やかな大衆社会から疎外された結果として孤独なのではない。孤独になりようがない場所に生きていることからもたらされた、括弧づき〝孤独〟に居るのである。その原因は、「あなたの後を」という短篇の主人公が本を選ぶ時、その内容ではなく、本のタイトルと手に取った時の重さの具合いで決めることのなかにも隠されている。言いかえれば、主人公は教養主義から注意深く身を避けているので、今日の社会で教養主義者が持たなければならない孤独を持つことができないのである。

この作品群の主人公の物事を見る視線は、決して対象の上に焦点を合わせないので、目は大きく見開かれているのに、対象との間に心の交流が生まれようのない、シュールレアリズムの画家ポール・デルヴォーの女達の視線を想起させる。

たとえば、フランス映画の一場面を想起させる「レイン・レイン」には、いつもバッグの底にぶ厚い本を忍ばせる人妻が登場する。彼女は教養を大事にする人物なのだ。「ビデオテープでもう一度」は、恋人が哲学科を選んだので別れてしまう大学生が主人公である。「黄色い旗のところまで」では、自分と、彼のかつての恋人の相手らしい男との間の区別がはっきりしなくなる様が描かれている。

もっとも、溶解しはじめているのは自他の区別ばかりではない。「ジュリエットの薬」「花嫁の父の事情」では、この世とあの世の区別もなくなりつつあるのである。ということは、不条理さえも成立困難になっているのらしい。だから「奇妙な線が」では、執念の象徴のような線がひとりで動いて主人公を傷つけるのだ。これは姿や情況を与えられない不条理の人間への反抗と言ったらいいだろうか。

こうして読んでゆくと読者の目には、描写し、それによって主人公の人格を形成し、同じく描写された情況のなかに置いて劇を構成してゆく近代文学としての意思を捨てた世界が、おぼろげに見えてくるようなのだ。

どちらの文学がいい、というのではない。新しいものほど進歩しているという神話はとうの昔に消滅しているのだから。ただ、「0(ゼロ)をつなぐ」には、今までに知られていなかった文学の領域に通底する面白さがあるということを指摘しておきたいのである。これを現代文学の病理と見るか豊饒化と見るかは批評家の手に委ねられている現代の課題であるだろう。
0をつなぐ / 原田 宗典
0をつなぐ
  • 著者:原田 宗典
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:文庫(196ページ)
  • ISBN-10:4101254222
  • ISBN-13:978-4101254227
内容紹介:
ごくありふれた日常生活の風景にふと顔をのぞかせる不安や違和感を題材に、都市に住む人間の乾いた心理を映す13編。あなたもよく感じている“奇妙な感じ”を描く短編集。

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初出メディア

中央公論

中央公論 1993年1月

雑誌『中央公論』は、日本で最も歴史のある雑誌です。創刊は1887年(明治20年)。『中央公論』の前身『反省会雑誌』を京都西本願寺普通教校で創刊したのが始まりです。以来、総合誌としてあらゆる分野にわたり優れた記事を提供し、その時代におけるオピニオン・ジャーナリズムを形成する主導的役割を果たしてきました。

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