書評

『丹下左膳 乾雲坤竜の巻〈上〉』(講談社)

  • 2022/01/17
丹下左膳 乾雲坤竜の巻〈上〉 / 林 不忘
丹下左膳 乾雲坤竜の巻〈上〉
  • 著者:林 不忘
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(363ページ)
  • ISBN-10:4062620383
  • ISBN-13:978-4062620383
内容紹介:
名刀乾雲丸と坤竜丸。離れれば互いに求めあい、持つ者を殺人鬼と化す宿命の妖刀だ。その一つが小野塚道場の俊才・諏訪栄三郎の手に、一つが二刀獲得に異様な執念を燃やす片眼片腕の怪剣士・丹… もっと読む
名刀乾雲丸と坤竜丸。離れれば互いに求めあい、持つ者を殺人鬼と化す宿命の妖刀だ。その一つが小野塚道場の俊才・諏訪栄三郎の手に、一つが二刀獲得に異様な執念を燃やす片眼片腕の怪剣士・丹下左膳に渡ったときから、大江戸の夜は血に染まる。乱闘に次ぐ乱闘に恋のさやあてもからみ、急展開するスリル満点の物語の興奮。映画でもおなじみ、大衆小説屈指のスーパー・ヒーロー、いよいよ登場。
昨年、『大菩薩峠』を読んで、机龍之助ってほんとうはこんなふうに描かれていたのかと、面白く思った。片岡千恵蔵や市川雷蔵の映画によってできあがっていた机龍之助と本家の小説『大菩薩峠』の中の机龍之助とはやっぱりちょっと違っていたからだ。映画では「虚無的な男」として描かれているが、小説では「虚無」そのものなのだった。

時代小説にはまったくうといのだが(そのくせ『大菩薩峠』と白井喬二『富士に立つ影』という二大長編小説は、なぜか偶然読んでしまっているのだ。ちゃっかりと)、他の時代劇ヒーローたちも実はそんなふうに世間に流布するイメージとオリジナルの小説の中で描かれたものとは、ちょっと違っていたりするのだろうか。眠狂四郎にしても旗本退屈男にしても宮本武蔵にしても、……私はつまらない先入観しか持っていない。ほんとうのところを知りたい。日本人の愛したヒーロー像とは、いったいどのようなものであったのか。映画やテレビドラマの中でデフォルメされていったとしたら、そのデフォルメのされ方、それ自体にも何か社会学的な(?)、つまり日本の大衆社会の変質といったものが読み取れそうだ。

などと、少し気にかかっていたら、うまいぐあいに講談社文庫「大衆文学館」シリーズで、林不忘の『丹下左膳』が出版された(上下二巻)。さっそく読んでみる。

あのー、こんなことを書いたら時代小説ファンの方は気を悪くするんじゃないかと心配なんですが……七ページ読んだ段階で、早くも私は笑いだしてしまった。

江戸は根津権現裏手に神変夢相流の町道場を開いている小野塚鉄斎とその娘・弥生との会話から始まる。明日は年に一度の大試合で、そこで勝ち残った者に乾雲丸と坤竜丸という名刀とともに、弥生をさずけることにするというのだ。弥生は道場一の達人である諏訪栄三郎という若者を愛していて、彼が勝者になるに違いないからという、鉄斎の「いきなはからい」なのだった――ということが七ページの中でスラスラと説明されていく。

私が笑ったのは、その七ページの間に弥生が三回もほおを染めたということだ。

すると弥生は、何故か耳の付け根まで赧(あか)くなって……

諏訪栄三郎! と聞いて、娘十八、白い顔にぱっと紅葉が散ったかと思うと……

すっきり爪立った栄三郎の姿に、板戸の引合わせから隙見している弥生の顔がぽうっと紅をさした……

すごいなあ。これでもかこれでもかとばかり顔面紅潮しているのよ。色白なのね。清純なのね。わかったわかった、よーくわかった――とおかしくなってしまう。時代小説を読み慣れた人は、こんなことにいちいち驚いたり笑ったりしないのだろうか。

結論めいたことをいきなり言ってしまうと――。『丹下左膳』という小説は、私には何よりもおかしな小説、笑わせてくれる小説なのだった。

文章が思いっきりくさくて、しかも元気があって、楽しい。たとえば、こういうところ。

恋の神様が桃色なら? 嫉妬の神は全身呪詛のみどりに塗られていよう! その緑面の女夜叉を与吉はいま眼のあたりに見たのだった。

たがいの呪い、憎みあう二匹の白蛇。それが今、茶の間……といってもその一室きりない栄三郎の侘住居に、欠け摺鉢に灰を入れた火鉢をへだてて向いあっているのだ。お艶と弥生。黙ったまま眼を見合って、さきにその眼を伏せたほうが負けに決っているかのように双方ゆずろうともしない――視線合戦。

くさいでしょう、何となくおかしいでしょう。「恋の神様が桃色なら?」というのと「視線合戦」というところがとくにいい。私、好きだなあ。

「大岡さまの前へ出て、これだけの仕(し)たい三昧(ざんまい)……巷(ちまた)の一快豪蒲生泰軒とはそも何者?」とか、

「ウワアッと! 喚発した悲叫は、左膳か、それとも栄三郎か?」とか、

「こうして一個のほそ長い影と化した左膳、乾雲丸を横たえて植込みづたいに屋敷を脱けてゆく。何処へ? 江戸の辻々に行人を斬りに。何のため? ただ斬るため」……など、疑問文が多いのも特徴だ。「何者」「何処へ」「何のため」など疑問形を使って、読者の興味をあおっていく。講談だったらパンパパンと張り扇が鳴るところか。

女を白蛇にたとえたり、「喚発した悲叫」なんて平気で書いたりする、そういうくさい文章は基本的に嫌いなのだが、この『丹下左膳』は、そのくさみがむしろ魅力だ。楽しい。大味というのでなくて大らかな感じがする。自由闊達な気分が流れている。

話があとになったが、丹下左膳は道場破りの浪士として登場するが、実は、「奥州中村六万石、相馬大膳亮の家臣」で「主君の秘命(乾坤の二刀を手に入れる)を帯びて府内へ潜入している仮りの相(すがた)」なのだった――ということになっていて、これは歌舞伎にありがちなパターンなのだった。

『丹下左膳』は完全に娯楽性を狙ったものではあるけれど、人物設定においては『大菩薩峠』とよく似たところもある。丹下左膳は机龍之助を、諏訪栄三郎は宇津木兵馬を、旗本・鈴川源十郎は神尾主膳を連想させる。

――という、以上は上巻を読んでの感想である。下巻は来月にならないと出ないのだ! 待ち遠しい。焦れったい。乾雲丸・坤竜丸二刀のゆくえと、それから三つの三角関係(お藤→左膳→弥生、弥生→栄三郎→お艶、源十郎→お艶→栄三郎)のゆくえを、ああ、早く見届けたい。

そうそう。これは有名な話だが……作者・林不忘の本名は長谷川海太郎で、三十五歳の若さで亡くなったが、三つのペンネームを使い分けていた。林不忘としては『丹下左膳』、谷譲次としては『テキサス無宿』、牧逸馬としては『この太陽』が代表作らしい。あとの二作も読んでみたくなった。

【この書評が収録されている書籍】
アメーバのように。私の本棚  / 中野 翠
アメーバのように。私の本棚
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(525ページ)
  • 発売日:2010-03-12
  • ISBN-10:4480426906
  • ISBN-13:978-4480426901
内容紹介:
世の中どう変わろうと、読み継がれていって欲しい本を熱く紹介。ここ20年間に書いた書評から選んだ「ベスト・オブ・中野書評」。文庫オリジナルの偏愛中野文学館。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

丹下左膳 乾雲坤竜の巻〈上〉 / 林 不忘
丹下左膳 乾雲坤竜の巻〈上〉
  • 著者:林 不忘
  • 出版社:講談社
  • 装丁:文庫(363ページ)
  • ISBN-10:4062620383
  • ISBN-13:978-4062620383
内容紹介:
名刀乾雲丸と坤竜丸。離れれば互いに求めあい、持つ者を殺人鬼と化す宿命の妖刀だ。その一つが小野塚道場の俊才・諏訪栄三郎の手に、一つが二刀獲得に異様な執念を燃やす片眼片腕の怪剣士・丹… もっと読む
名刀乾雲丸と坤竜丸。離れれば互いに求めあい、持つ者を殺人鬼と化す宿命の妖刀だ。その一つが小野塚道場の俊才・諏訪栄三郎の手に、一つが二刀獲得に異様な執念を燃やす片眼片腕の怪剣士・丹下左膳に渡ったときから、大江戸の夜は血に染まる。乱闘に次ぐ乱闘に恋のさやあてもからみ、急展開するスリル満点の物語の興奮。映画でもおなじみ、大衆小説屈指のスーパー・ヒーロー、いよいよ登場。

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初出メディア

毎日グラフ・アミューズ(終刊)

毎日グラフ・アミューズ(終刊) 1995年3月8日号~1997年1月8日号

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