学者には二通りのタイプがある。ひとつのタイプは、あらかじめ成立している学問の細分化されたあり方をそのまま受け入れ、その約束ごとを律儀に踏襲しつつ、それまで研究されていなかった部分を埋めていく作業を行なう者。このタイプは別の専門領域に属することについてはけっして言及せず、自分の専門分野の法則の内側に踏みとどまることが学問的良心だと信じている。
だが数は少ないが、まったく別のタイプの学者が存在している。彼らは従来の学問のあり方そのものを根底的に疑い、それを転覆させて、人間と知との関係を新しいものに組み換えることを意図してモノを考えている。ある学問が自明としてきた前提を批判し、人間の認識の仕方を直接に問おうとする。最初のタイプの学者が新発見や新学説を唱える人だとすると、二番目のタイプは学問の新ジャンルを独力で作り上げ、知をめぐる新しい地平を提示する先駆者だということができる。エドワード・W・サイードは、ソ連の対話主義論者ミハイル・バフチンやフランスの思想家ミシェル・フーコーと同じく、この第2のタイプに属する学者であり、思想家であった。
サイードは1935年にエルサレムに、キリスト教徒であるパレスチナ人の子弟として生まれた。13歳のときにユダヤ人が一方的にイスラエルという国家の樹立を宣言したため、一家はすべてを捨て、難民としてエジプトに逃げ延びなければならなかった。彼の母親はイスラエル兵士によって、目の前でパスポートを破り捨てられたという。故郷を喪失した少年はその後アメリカに学び、長じてコロンビア大学で比較文学を講じる教授となった。ある時期まで彼は出自であるアラブ社会に眼を伏せ、ヨーロッパ文学の古典的教養を体現する秀才文学者として活躍してきた、だがやがて『オリエンタリズム』なる大著を発表し、そのなかで西洋文明の本質は帝国主義であると喝破した。近代の欧米の学者や芸術家がいわゆるオリエント社会に向けてきた偏見きわまりない眼差しが、その背後にある植民地主義といかに密接な関連にあるかを徹底的に糾弾する書物である。こうしてサイードは文学研究にポスト植民地主義という斬新な視座を導入し、新しい学問ジャンルを独力で築き上げた。
『オリエンタリズム』という書物の内容を要約してみると、だいたい次のようになる。
近代のヨーロッパは中近東をオリエントと呼び、夥しい数の学者を派遣して、この地域について考古学から人類学の調査、また民謡と言語蒐集を行なってきた。だが、はたしてそれは知をめぐる純粋に無償の欲求からなされたものであろうか。学者たちの背後にはつねに軍隊と植民者が控えていたし、研究という名目で大英博物館やルーブル美術館に運ぼれた美術品や財宝とは、要は体のいい強奪であった。オリエントと呼ばれた地域に住む者たちは自分のことをヨーロッパという他者の言語と思考の枠組みを通してしか知ることができなくなった。ヨーロッパ側は彼らを植民地人として差別しつつ、先祖の文明の高さを不幸にして忘れてしまった彼らに対し、自分たちこそがそれを教えてやらなければいけないという尊大な口吻を漏らした。
現代にまで続いているこうした学問の傾向に、サイードは忽然と挑戦を行なった。これは単に異国情緒の問題ではない。自分は、オリエントがヨーロッパに対して劣っているという主張だけを取り上げて、それが誤りだといっているのではない。というのもヨーロッパ人は、過去のオリエントは優れていたと説きながら、近代のオリエントを帝国主義的に支配してきたのであって、より性質が悪いのだ。より本質的なのは、そもそもヨーロッパとオリエントをまったく別のものとして区別し、両者の隔たりを過度に強調することではないか。それは、一つひとつの言説を「オリエンタリズム」だと非難して、いわゆる言葉狩りをしてすむ問題ではない。オリエンタリズムはアジアをめぐるあらゆる言説のなかに空気のように漂っているのであって、何人もそれから完全に自由になることができないのだ。たとえばアジアの野蛮に対抗してヨーロッパ文明の砦を築こうと主張するシオニストによって建設されたイスラエルという国家は、まさにオリエンタリズムの帰結にほかならない。
こうしたサイードの問題提起は、日本のように、アジアにおいていち早く「西洋化」を達成し、ヨーロッパの列強を真似て植民地獲得の真似ごとを行なった国家においては、けっして対岸の火事とはいえないことである。日本はオリエンタリズムの言説の対象となるとともに、近隣諸国に対してはオリエンタリストとして振舞ってきたという、二重の過去をもっているからである。
さてサイードの知的活動はというと、先に述べた第2のタイプの学者であるだけに留まらなかった。1974年にPLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長の国連演説の翻訳に関わったことが契機となって、彼は生まれ故郷パレスチナの解放を強烈に求める知識人へと生まれ変わったのである。知識人と学者とは違う。知識人の本質とは、自分の学問的な専門領域をひとたび離れて、アマチュアとして現下に生じている世界の矛盾に対して発言をすることだと、サイードは説いた。知識人は国家や権力に属してはならず、どこまでもそれに批判的であることを忘れてはならない。サイードはこの信念に基づいて、ある時点でアラファト議長の権威主義的独善と訣別した。PLOは彼を「オリエンタリスト」と呼んで非難した。
サイードはニューヨークに拠点を置いていたが、いつユダヤ人の狂信者に攻撃されるかわからないという、つねに危険に晒された状況のなかで知識人として行動し続けた。永遠に故郷を喪失した者の孤独と孤立を思考のバネとして文学を論じ、アメリカのイラク攻撃を批判し続けた。どんな時でも出発とは不安に満ちたもので、たとえ短い旅でももう二度と家に帰れないのではないかと心配してしまう。だからいつも鞄に荷物を詰めすぎてしまうのだと、笑いながら語った人だった。60歳をすぎて白血病を医者から宣告されると、イスラエル官憲に逮捕されることを覚悟で、50年ぶりに故郷エルサレムに家族を連れて旅行した。娘と息子に、自分の生まれ育った美しい町を見せておきたいという願いからのことだった.だがそれはあまりに変わり果てた故郷を知る、深い悲しみの旅となった。サイードは2003年、67歳で生涯を閉じた。
わたしは1980年代にコロンビア大学で研究員を務めていたとき、この卓越した人物のゼミナールにしばしば参加した。精力的な講義をする人で、黒板いっぱいに白墨で書き付ける人だった。日本のドキュメンタリー作家の佐藤真が彼の死後、『エドワード・サイード OUT OF PLACE』というフィルムを発表したことは、慶賀すべきことである。わたしはこのフィルムを観て、あらためてサイードの思考と人生の孤立の深さを思い知らされた。彼の霊の安らかならんことを。
【この書評が収録されている書籍】