書評
『須賀敦子全集 第1巻・第2巻』(河出書房新社)
過去語りの文章が奏でる良質な詩情
須賀敦子の文章を読むと心が静まるという人は多い。本を開くとイタリアのちょっと昔の村や街から、世界中どこを探しても見つからない匂いや湿気や風が届く。それらはときにひんやりとした不幸を孕んでいるし、どこかに置き忘れてきたような幸福も思い出させてくれる。だから心が静まるのだろうか。少し違うような気がする。
著者の視線が読者の感性をなごませ、世界との触れ合い方を変えてしまうからだ。少くとも彼女の文章をたどるあいだ、世界はやむをえぬ悲劇に満ちているけれど、そのかなしみのすべてが存在の意味をもち、かなしみゆえに何物かを攻撃することは決してないということが信じられる。この奇蹟的な幻想を宗教書以外に実現できるのが、須賀敦子の文学世界だ。
かなしみの裏には通常、ひりひりする自分への叱責があり、後悔があり、恨みがある。マイナスの感情を剥ぎとられたかなしみなど、現代におけるどの局面においても在りえないのだから。
ところが須賀敦子は、かなしみさえ微笑の風でもって祝福している。諦念による放棄ではなく、すべてを受け入れ、詩情の中に沈静させる強い精神があるからだ。
私はときどき、須賀敦子の世界の一部になりたいと思う。このようなまなざしにまみれたいと希う。と同時に、彼女のように人と接してこなかった自分が、痛烈な後悔となって襲ってくる。私はこんなふうに人にやさしくなかった。だからきっと、過去の人々から、こんなふうにやさしくされることもないだろうと。
単行本の解説を書いている池澤夏樹によると、須賀敦子の視線が良質な理由として「まずは彼女がイタリアで大変によい生活を送ったということがある。よい生活とは経済的に豊かという意味ではなく、おちついて、見るもの聞くものに誠実に接し、着実に暮らしたということ」をあげている。
外国で暮す場面で、当然そこに生れる身構えや異質な人間同士が理解しあうことへの強迫的な義務感が、多分須賀敦子にも生じたはずなのに、それを感じさせないのは、彼女のたっぷりと豊かな気質のせいだろう。
いやこうも考えてみる。やはり時間のマジックなのだと。
すべて過去語りとして作品化されるとき、その俯瞰する語り手からは、攻撃性が消されていく。
大戦中のドイツの収容所から生還した友人マリアは、著者の人生の選択のかなめのようなところに存在していた人物だが、彼女は「大きなつばに花かざりのついた帽子」を大切にしていて、それがいかにもレジスタンスの英雄にふさわしくなかった様子を面白おかしく描写しながらも、しかし、伝えるべき悲惨さは美しい帽子の背後を流れる風として、きちんと伝えている、というふうにだ。
過去語りのエッセイは、フィクションの力を削ぐはたらきをするし、現実(リアリズム)の鋭利な棘を半透明なベールで覆ってしまいかねない。その難点を著者は、ぎりぎりのところまで小説に近づける方法で克服した。その結果、過去の人物が、小説の中の登場人物のように生きいきと動く。
そもそも何十年も昔に出会った異国の人物に関して、こんなに詳細な記憶があるはずがない。会話のひとことや動作の一部始終が明快なのは、かえって不自然だ。フィクションの力を目一杯はたらかせて、過去を創造しなおし、語っているのである。
“書いた”というより“語った”ように見えるのは、文章の音楽性ゆえだろう。
名文と言われる意味の多くは、音楽性にあるのではないだろうか。つまり抑揚やリズム、調和を目ざさない調和。
――紫苑。おそらくは菊の一族なのだろう、ぱっと目立つ花ではないけれど、紫苑という漢字はゆかしいし、だいいち、シオンという音のひびきがさわやかである。高く伸びて、野菊に似たむらさきの小花をまばらな星座のように濃い緑の葉のあいだに咲かせる、あの濡れたような色や、すらりと伸びる姿が好かれるのだろうか。野の花にしては華やかだが、栽培される花にしては野趣が濃い。(「トリエステの坂道」)
さらりとしていて決して長すぎず、それでも通常の息を少し乱さなくては謡(うた)えない文章、その波に乗って言葉を渡って行く快楽。
このような呼吸する文章がどこから来たのか不思議だが、著者が翻訳家としてイタリアのすぐれた文章に接してきたこと、女性であること、その両方からと思われる。
無理なく流れていながら情報量は多く、読者を立ち止まらすことなしに注ぎ込んでくる文体は、多分男性作家には難しく、思い出すかぎりでは幸田文に近い。エッセイと小説のあわいで、女性の生理が躍動するときに生れる独得の呼吸かもしれず、となると須賀敦子は、遠く平安の古典に通じている気がしてきた。
【第2巻】
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