書評
『雪屋のロッスさん』(新潮社)
夢の鈴をチリリと鳴らす身近な神さま
川端康成の『掌の小説』に似た長さの、非リアリズム小説が三十篇。どれもやわやわとして明るい。ありえないことばかり起きるのに、人ごととは思えない身近さがある。登場する人物や出来事は、淡い色に縁どられ、重力を感じさせずにいつまでも記憶の中に漂っている。その漂い方もまた、ひっそりとして穏やかなのは、時空を越えて世界中どこにでも移動できそうな物語が、昔読んだ西洋の童話に似ているからだろうか。
「大工さんの大半は宇宙人です――」で始まる原稿用紙に二枚ばかりの作品は、ひと筆描きで神さまを書けばこんなふうになるのか。
大工たちは宇宙人だが、地球をのっとるとか電波で支配するとか、そういう悪い連中ではない。ただ家を建てている。とんかんとんかん、と釘をうつ音は、遠い母星への通信文になっていて、元気だ、とか、孫ができた、とか温泉へいった、とかふつうのことを母星に伝えているのだそうだ。
彼らはいのちを失うとき、次元を破ってあっちへ行くらしい。
棟梁が吐息をついて話すには、彼の弟が梁の上で弁当を食べていたときカラスにまとわりつかれて、道具箱を落しそうになった。その家の前をランドセルを背負った女の子が歩いていて、かなづちやかんなが真上からふってくる。弟は迷わず落下しかける道具類にとびついた。彼は「ぐにゃりとした、なんだかわからないものに姿を変え、空中に舞い散る大工道具をさっとつかみました」女の子はきょとんと真上をみあげているが、そこに弟の姿はない。道具ごと次元を越えたのだ。
棟梁は煙草の煙をぷかりと吐き、「まあ、筋のとおった男だったよ。男とか女とか、おれたちほんとはないんだけど」と言う。そして最後にこんな一文が添えられる。
「このように彼らには立派な人物が少なくない。将来大工になりたい、とアンケートに書く子どもが多いのも、その辺のことを、うすうす感じているからなのかもしれません」
どこにでも在る、どうってことのないお話です、という素振りに素直に付き合って読むのがいい。するとふつうのことやうすうすという言葉が、マジックで使う薄い布のように、別の意味を取り出す仕組みだとわかってくる。
次元を越えて消えたはずの棟梁の弟は、道具類にとびついたちょっと滑稽な輪郭のまま、善意の空洞になり、やがて一筆描きの神さまになる。それはまるで、棟梁がぷかりと吐いた煙のようだ。作者もぷかり。いやまあ、そんなことがあってもいいんじゃないんでしょうかねえ、と。
ええ、いいんです、ステキです、神さまなんてこんな出方や消え方がスマートだと思います、と、同意したときはもう、次の作品が始まっている。何しろ三十の物語がすべて、荒唐無稽なはずなのに一行目から堂々と存在を主張するものだから、あっけにとられて呑み込まれるしかない。
「コックの宮川さん」は冷蔵庫にじっともぐりこんでいるし、「クリーニング屋の麻田さん」はいきなり「こっちのこころがつぶれちまいそうな服があるんですよ」などと呟く。彼らはみんな、自信にみちたいい顔をしている。いや主人公は、動物であったりポリバケツであったり街道でもあったりするわけだから、いい顔でなくていい姿か。それぞれが、こっそり身をやつした神さまなのだろう、それでようやく説明がつく。
人間の輪郭は、自我が他者とぶつかるときに初めてはっきりする。だが主人公たちは他者とぶつからず、すり抜ける。どこにも引っかからないのに、希有な出会いとなる。行き過ぎたあとに、特別な人と出会った印象が残る。なんだか変だが、確かに存在していて、しかも胸のあたりをうずうずと暖めてくれるのは神さまに違いないと、振り返って思う。
そういえば沢山の奇蹟も起きた。
「図書館司書のゆう子さん」は久しぶりに勤めている図書館から本を借りて帰る。昔読んだ本だ。午後の日差しがななめに差し込む八畳間にあぐらをかき、玄米茶をすすりすすり、薄いページをひらく。米をといだり風呂桶をみがいたりしたあとでまた、その本をひろいあげてページをめくったところ、五十二ページ目に、さっきは見落としていたらしい鉛筆で書いた七桁の数字を発見する。電話番号のようだ。その数字は彼女が幼い日を過ごし、今は焼失してしまった懐しい家の、忘れかけていた電話番号だった。
この番号に電話をかけたら誰が出るだろうかとゆう子さんは想像する。十歳の自分か。死んだ母親か。しかしゆう子さんはかけない。灯りを消して目をつむる。
奇蹟は小さくささやかなまま、日常の片隅で終る。小さくささやかだからこそ、読む者の心にも容易に滑り込み、もしもそのようなことが起きたらどうしようと戸惑わせ上気させ、忘れていた夢の鈴をチリリと鳴らすのだ。
【単行本】
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