書評
『ブッダは、なぜ子を捨てたか』(集英社)
謎にみちた「一人の男」の心の裡
衝撃的な問いかけのタイトルだ。ブッダは本当に子を捨てたのか? ブッダは二度自分の子供を捨てたと、著者は考える。一度目は我が子に「悪魔」と名前をつけることで、二度目は実際に妻子を遺棄することでだ。そして六年間の苦行の末に悟りを開いたのだと。ブッダの生涯をたどりながら、仏教の基礎知識を教えられた。シャカとは北インドのシャカ族の名前であり、私たちが通常、“お釈迦さま”と呼ぶ天上から仏光を放っておられる存在とはかなり離れたものだ。青少年時代の名前はシッダールタ、つまりこれは生れたときに与えられた個人名。そして悟りを開くまでがシャカであり、開いたのちにブッダとなる。
となると、家を出た時点ではまだブッダではなくシャカで、我が子を二度も捨てたあとで、ブッダが誕生したことになる。
当然著者も「シャカは、なぜ子を捨てたか」というタイトルを考えたはずである。しかし、シャカという気高く大きい一般的なイメージではなく、一人の男、一個の人間として仏教開祖の人を追求しようとした。その結果どうしてもブッダと呼びたかったのではないだろうか。
「シャカよあなたは誰だ」、と呼びかけることは難しいが、「ブッダよあなたはなぜに」、と問いかけることは可能だ。
これは実に奇妙なことだ。悟りを開き覚者となり、やがて膨大な支流を生む仏教の源、頂点に座した存在に対して、我々は天上の神を扱うようにではなく、人間に接するように近づこうとする。根本においての人間への関心がそうさせる。
この不思議な現象を、長い歴史の中でシャカの名が変容し、別の高い存在となったからだと、それだけで説明できるものではないだろう。仏教の本質に触れてくる何かが、隠されている気がしてならない。
このように本著は、読者をブッダの心の謎解きに誘いながら、また次々に謎を生み出していくのである。
人間の心の裡(うち)ほど謎にみちた場所はない。この一冊を読み終えても無論、謎解きは完結しない。それでも、ブッダが到達した心境と、現在日本で共有されている仏教思想との隔たりには、愕然とさせられる。
ブッダはあの世のこと、つまり浄土について一切のイメージを持っていなかった。それどころか、自分の死後の骨の扱いについて「かかずらうな」と言い遺している。この言葉の真意は必ずしも明らかではないが、盛大な葬儀を行ったり、遺骨を崇拝の対象にすることなど、ブッダは考えてもいなかった。
何がどうなって今日の姿になったのかもまた、推測は出来ても大いなる謎だ。水源は一人の男の「悟り」であっても、分水嶺に分かたれ、何人もの賢者たちにより補足的創造や思考が加えられ、国々の風土に塗り変えられ、あたかも進化の系統樹のように広がり、ブッダが想像だにしなかった仏教の姿を、アジア各地に出現させた。
進化の系統樹を逆にたどっても、ブッダその人に近づくことは出来ないだろう。方法はただひとつ、著者がそうしたように、自らの人生の実感、身体の五感でもって、その人の心の裡を想像することだけだ。それは宗教的な行為なのだろうか。もしそうなら関心は「悟り」に向かうはず。「悟り」以上の魅力が、ブッダにあるとしたら……。
ブッダは生来の聖人でも偉人でもなく、実在した苦悩の男、いや妻子を捨てた酷い男だ。ほら、そこに居る貴方のように。
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