書評

『ウスバカ談義―ユーモア・エッセイ』(旺文社)

  • 2023/02/15
ウスバカ談義―ユーモア・エッセイ / 梅崎 春生
ウスバカ談義―ユーモア・エッセイ
  • 著者:梅崎 春生
  • 出版社:旺文社
  • 装丁:文庫(251ページ)
  • ISBN-10:4010614080
  • ISBN-13:978-4010614082
映画マニアの友人にすすめられて、『簪(かんざし)』というビデオを見た。戦争直前の昭和十六年、清水宏監督作品である。

いやー、よかった。面白かった。ジャン・ルノアール監督の名作『ピクニック』を連想させるところもたっぷり。

伊豆のある温泉宿を舞台にした話で、若き日の田中絹代や笠智衆、そしてすばらしくフォトジェニックな肉体の持ち主であった斎藤達雄、などが出演している。大ざっぱに分類するなら「人情喜劇」ということになるのだろうが、「人情喜劇」という言葉につきまといがちなベタベタギャアギャアした感じはまったくない。サラッとしている。湯あがりの、よけいな力の抜けた、ラクーッな、サッパリとした気分が全編に漂っている。ゲラゲラ笑わせるというのではない、ホワーッと愉快になる映画。こういう「日本のんき映画」の系譜ってあるなあ、好きだなあ――と痛感する。

出てくる人物のしぐさもセリフもベタつかず、騒々しいところがなく、何とも言えず綺麗(きれい)だ。端正で、しかも堅苦しくなく、綺麗。こういう映画を見ると、戦前昭和の中産階級は、今の中産階級よりずうっと層としては薄かったが、断然文化的に豊かだったと思い知らされる。

原作は井伏鱒二だ。さっそく原作のほうも読んでみたくなったが、すぐにはみつからない。くやしいなあ。

文学史の中ではどういう位置づけになっているのか知らないのだが、私の頭の中では井伏鱒二と梅崎春生は何となく……うーん……「のんき」な気分が似ている。叔父と甥くらいの精神的血縁性を感じる。私は梅崎春生の代表作と言われている『桜島』はそうでもないが、『ボロ家の春秋』をはじめとする一連のユーモア小説のほうは、かなり好きなのだ。『ウスバカ談義』という魅力的なタイトルのユーモア小説集が旺文社文庫で出ている。その文庫には“ユーモア・エッセイ”と銘打たれているが、私はエッセーというより小説のほうに近いと思っている。

全部で十編が収録されていて、そのうち三編(「ウスバカ談義」「益友」「孫悟空とタコ」)が“山名君もの”である。“山名君もの”というのは私が勝手にそう呼んでいるだけのことなのだが、著者自身を思わせる語り手の家に、変わり者の画家である山名君というのがやって来て、あやしげな持論を開陳したり、駄犬駄猫を売りつけたり、蜂の巣退治に挑戦したりする。基本的に、まあ、それだけの話である。横丁のご隠居のところに職人の八っつぁん熊さんがやって来て、かみ合ってるんだかずれているんだかよくわからないおしゃべりをしていく――落語の世界ではおなじみのパターンとも言える。

「今日こちらにおうかがいする途中――」カロを膝の上に乗せて、貧乏ゆすりをしながら、山名君は話し始めた。(「ウスバカ談義」)

「やはり犬を飼うんですな、犬を」私の邸内、というと大げさになるが、つまり家のまわりを一巡して、縁側にゆっくり腰をおろし、山名君は仔細らしい顔つきでそう言った。(「益友」)

「どうです。粉サンショウは要りませんかね。お好きだったら、上げますよ」山名君はやって来るなり、そう言った。(「孫悟空とタコ」)

――と、そんな調子で、三編とも山名君のセリフから始まる。

『ウスバカ談義』というタイトルは、山名君が電車の中で見かけた男二人の喧嘩がもとになっている。男たちはささいなことから口論となり、一人が「大バカ野郎」と叫んだら、もう一人のほうが「なにを、このウスバカ野郎」と言い返した。そこで山名君は考えた。大バカよりウスバカのほうが、ののしり方としてはきついのではないか、と。

以下その理由が述べられていて、そこに山名君が語り手に売りつけたカロという猫と、以前から語り手の家にいたレオという猫をめぐる一騒動が絡む。

などとあらすじめいたことを書いてもしようがない。話自体は全然ドラマティックでもないし、たいして突飛というわけでもない。なんなんだろうか、よくわからないが、そばをたべるごとくするすると、面白く読まされてしまう。

サラリとした昭和の落語――と思うが、どうも妙な感じで引っかかるのは、この著者の「食」への偏執ぶりである。と言っても、いわゆるグルメ的偏執では、まったくない。快楽のための食ではなく、人間の、もっと低いレベルでの食――への偏執。

「ウスバカ談義」の中には、どこまでほんとうかよくわからないところだが、山名君の話として、「南方のさる島」での食人肉の話が出てくる。痩せた男はスープのダシになると聞いておびえた男に、他の人間はこう言って慰める。「真先に死ぬのはつらいだろうが、他の奴らは食われてしまうのだ。ダシガラとして形だけは残る。それだけでも満足すべきじゃないか」――そういう話があったと山名君は語るのである。

また、「益友」の中では、山名君は自分が連れてきた犬の背中をさすりながら「この尻尾の見事なこと。実にうまそうじゃないですか」「チョンチョンと輪切りにしてね、四、五時間ぐっすりと煮込みます。ソースや酒を加えてね。あとタマネギや小蕪、人参なども入れてよろしい。つまりシチュウですな」などと言い出すのだ。

語り手が「僕は犬の尻尾なんかを食う趣味はないよ。君はしょっちゅう食ってるのか?」と聞くと、「とんでもない。復員後は一度も食べたことはありませんよ」と言う。

あんまり「のんき」でもない話になってきた。

梅崎春生の書くものは、「のんき」な調子のうちにこういうギョッとするようなヘンな話が、時どきまぎれこんでいる。戦争の影か。それとも本質的に「人間の、低いところ」に執着せずにはいられない気質の人だったのか。

巻末の「Q高原悲話」は終始「のんき」で愉しい。

画家の卵二人がQ高原のオンボロ別荘で一夏を過ごす話。Q高原にはセミが多い、いや少ないという屁理屈めいた議論と、青葉号なる駄馬に関するエピソードが「のんき」な気分を盛りあげている。もろに、清水宏監督映画の世界だ。

梅崎春生というと、私はすぐ「――ねえ」の人と思う。「呆れましたねえ」とか「しかし物事というものは、いつも予定通りは行かないものですねえ」とか、「――ねえ」がよく出てきて、茶飲み話的なとぼけた味をかもし出している。この「Q高原悲話」の最後の一行も、「全くひどい奴ですねえ」だ。

【この書評が収録されている書籍】
アメーバのように。私の本棚  / 中野 翠
アメーバのように。私の本棚
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(525ページ)
  • 発売日:2010-03-12
  • ISBN-10:4480426906
  • ISBN-13:978-4480426901
内容紹介:
世の中どう変わろうと、読み継がれていって欲しい本を熱く紹介。ここ20年間に書いた書評から選んだ「ベスト・オブ・中野書評」。文庫オリジナルの偏愛中野文学館。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

ウスバカ談義―ユーモア・エッセイ / 梅崎 春生
ウスバカ談義―ユーモア・エッセイ
  • 著者:梅崎 春生
  • 出版社:旺文社
  • 装丁:文庫(251ページ)
  • ISBN-10:4010614080
  • ISBN-13:978-4010614082

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

初出メディア

毎日グラフ・アミューズ(終刊)

毎日グラフ・アミューズ(終刊) 1995年3月8日号~1997年1月8日号

  • 週に1度お届けする書評ダイジェスト!
  • 「新しい書評のあり方」を探すALL REVIEWSのファンクラブ
関連記事
中野 翠の書評/解説/選評
ページトップへ