書評

『龍以後の世界―村上龍という「最終兵器」の研究 オフサイド・ブックス四六スーパー』(彩流社)

  • 2022/02/19
龍以後の世界―村上龍という「最終兵器」の研究 オフサイド・ブックス四六スーパー / 陣野 俊史
龍以後の世界―村上龍という「最終兵器」の研究 オフサイド・ブックス四六スーパー
  • 著者:陣野 俊史
  • 出版社:彩流社
  • 装丁:単行本(219ページ)
  • 発売日:1998-06-25
  • ISBN-10:488202652X
  • ISBN-13:978-4882026525
内容紹介:
暴力、男根主義、女陰主義、インモラル、共同体、音楽、サッカー──村上龍という現代日本にとってもっとも重要な「触媒」を通して、70年代後半から現在にいたる文化総体を読み解く冒険的な試み。かつてない「龍の世界」を浮上させる。

「動物になる」記述

批評は、論じる作品の言葉に到達することはできない。けれど、あたかもテクストに到達しそれを代表しているかのように見せている評論も多い。陣野俊史はこの本で、村上龍の小説を説明することを、最初から放棄している。プロローグやあとがきで断っているとおり、この本は村上龍についての作家論でも作品論でもないのだ。彼は、「村上龍」は触媒だという。触媒である以上、それそのものを深く語ることはできず、必ず別のところへと運ばれたり、別のことが起こってしまう。

では、村上龍を触媒として何が語られているのか。大きく分けて二つある。ひとつは、「ロックの死」を中心に「音楽が音楽として自立することが困難になり、絵画が絵画として自立することが不可能になった」七八年から八二、三年の時代についてである。現在、文化がジャンルで分割できない総体となったのは、その時代のことであり、村上龍の広い活動はそれに対応していると、著者は考えるからだ。もうひとつは、「動物になること」という新しい描写論である。それぞれ、村上龍という触媒の力によって、見えてくるものなのである。

これらのテーマは、有機的なひとつの流れに沿って説明されているわけではない。もともと、雑誌発表時には村上龍論として書かれたわけではない文章を集めたという事情もあるようだが、それだけが理由ではない。著者の思い出話らしきものに走ったり、「やれやれ。そうじゃないだろう」と言い出したり、自分のことを「俺」と言ったりと、文体もあまり評論ぽくはないのだ。では、制度となった評論的なるものを壊そうと、このようなやや口語的エッセイ的な文体を使っているのかというと、そう若気の至りのような話でもなさそうである。

あとがきを読むと、陣野は「テーマ主義」を信じていないと書いている。「村上龍という媒体を経ながら、どこかその奥へ到達し、意味を貪り読むということとは、対蹠的なところで勝負したい」とも書いている。なぜか。これが、陣野がこの本の後半「村上龍の光学」で論じたかったことである。つまり、「動物になること」。

動物になることとは、村上龍というとすぐ形容される「本能的」ということではない。陣野はこれを「生態幾何学」という概念や、ジル・ドゥルーズの『感覚の論理学』を使って、解き明かそうとしている。そこで執拗に攻撃されるのは、「空間的構造」である。「空間的構造」は人間中心主義だからである。それはあたかも中世の天動説のように、人間を真ん中にすえていつどこから見ても揺るぎない構造を作りだしている。この延長で、例えば絵画の遠近法なども可能になる。ところが、動物になろうとすると、この人間中心主義は崩れる。

「動物になる」とは、「状態としての肉」であることだからだ。一刻一刻、自分をとりまく環境から情報を与えられることによって、また環境に情報を与えることによって、絶えず変化し続ける肉である。では、どうしたらその肉になれるのかといえば、小説を書くことだという。そして、「動物になる」という小説の実践例として、陣野は村上龍のいくつかの小説の描写や中上健次の『奇蹟』を挙げている(具体的な分析は、実際に本を読んでもらいたい)。

著者がきらう「テーマ主義」とは、音楽なら音楽をめぐる分析を、空間的構造に整理する人間中心主義的な行為を指す。だが、このような考え方を表すのに、それを説明する自分の文章が空間的構造を構築しないよう避け、あくまで状態としての肉であろうとすると、とてつもない困難に陥る。なぜなら、「動物になること」である文章は、説明ということとまったく正反対だからだ。それでも陣野は、そうあろうとしているように見える。この決意が、本書を潔く、誠実なものにしている。小説ではないので、限界はあるが。(残念ながら、陣野のそうした姿勢を説明している私のこの文章は、彼の意志にならうことを諦めている。)

この本の前半に扱われている「総体としての文化」も、「動物になること」と関係しているように思える。ジャンルがジャンルとして成立しなくなり、文化総体となったということは、空間的構造が成り立たなくなり、そう見えていたものが、お互いの情報により絶えず形を変えるようになったということだろう。従って、現在の「音楽や映画から小説への越境」といった言説に、陣野は緩やかに異議を唱える。「越境」という言葉で空間的構造を維持しようとすることを、許さない。例えば、「越境者」ではなく文化総体を担う者、もっと言えば動物になっている者として、町田康を論じている。この陣野の主張は、まったくもって正しいと思う。

以上のような著者の態度は、まさしく「ロックの死後を生き、日本近代文学の死後(中上健次の死後)を生きてなお、村上龍も、私たちも生き続けなくてはならない、ということである。もちろん少しもネガティヴな意味においてではなく」という生き方そのものである。彼には、「ロック」や「文学」など本当はどうでもいい連中が口にする「ロックの死」「文学の死」とは正反対の切実さがある(彼のサッカーをめぐるエッセイを読んでも、そう感じる)。それは、自分が歴史に参加しているという責任感であり、本書にみなぎる肯定の力なのである。
龍以後の世界―村上龍という「最終兵器」の研究 オフサイド・ブックス四六スーパー / 陣野 俊史
龍以後の世界―村上龍という「最終兵器」の研究 オフサイド・ブックス四六スーパー
  • 著者:陣野 俊史
  • 出版社:彩流社
  • 装丁:単行本(219ページ)
  • 発売日:1998-06-25
  • ISBN-10:488202652X
  • ISBN-13:978-4882026525
内容紹介:
暴力、男根主義、女陰主義、インモラル、共同体、音楽、サッカー──村上龍という現代日本にとってもっとも重要な「触媒」を通して、70年代後半から現在にいたる文化総体を読み解く冒険的な試み。かつてない「龍の世界」を浮上させる。

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図書新聞 1998年9月19日号

週刊書評紙・図書新聞の創刊は1949年(昭和24年)。一貫して知のトレンドを練り続け、アヴァンギャルド・シーンを完全パック。「硬派書評紙(ゴリゴリ・レビュー)である。」をモットーに、人文社会科学系をはじめ、アート、エンターテインメントやサブカルチャーの情報も満載にお届けしております。2017年6月1日から発行元が武久出版株式会社となりました。

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