死の真相に潜む日常の狂気
舞台は、東京・中目黒にある瀟洒な洋館。シェアハウスとして使われているこの家には、五人の住人が住んでいる。冒頭で、住人のひとり、樅木(もみのき)照(ひかる)が死ぬ。けれど語り手は照である。照の意識は今なおあって、体は自由に、どこへでも飛んでいける。照、シェアハウスの残された四人の住人たち、それからこの家担当の不動産屋の男。それぞれに視点を移しながら、小説は進行していく。やがて、この家に住む人たちがたんなる店子(たなこ)同士という関係ではないこと、照の死には不自然な点があることが、わかってくる。
このシェアハウスに住んでいるのは、一癖ある人ばかりだ。死んだ照の職業はヌードモデル、不自由が大嫌いで、生きているときも、死んだように生きていた。ほかには三十代半ばのフリーライターであるみゆき、イタリア料理のシェフ竜二、五十代の売れない俳優真人、二十代後半の銀行員葉子。接点のない住人たちなのに、よく集まっては竜二の作る料理を食べ、みゆきの作るハーブティーを飲んでいる。
仲がいいとはけっして言えないが、けれど仲が悪いとも言えない彼らの、いびつな関係が、照の死によってゆっくりとあぶり出されてくる。感触として、それは非常に気味の悪いものなのに、なぜか色合いとして、かなしみが広がる。小説のなかに描き出される飲みものや料理や、季節によって色を変える木々や使い慣れたテーブルが、どんどん、かなしみの色を帯びてくる。
どういうわけだか、このシェアハウスに集った人たちは、生きるとはなんであるのかという問いを負っている。それは彼らそれぞれにとって、自由とはなんであるのか、という問いでもある。生きること、それがひとりひとりにとって違うように、それぞれの思い描く自由も違う。銀行員の葉子が獲得しようとする自由と、俳優の真人がもてあましている自由とは違う。照が自由でいるために続けた行為を、葉子もみゆきも自由と思うとはかぎらない。それでも、ひとつ屋根の下にいる彼らは、何が自由で何が生きることなのか、わからなくなっていく。それぞれの自由と生の、判別がつかなくなっていくのである。結果、自分のものではない自由が、自分には似合わない生が、ほしくなる。それを手にした人が、妬ましくなる。
自由であることは、何もかも許されて生きることは、もしかしてものすごくかなしいことなのかもしれない、と読み進むうちに思えてくる。だってそれは、生きることから除外されるようなことだから。虫のような女、と幾度か人から例えられ、今や体だけ自由な照が、そんなふうに告げているように思える。小説がかなしみを帯びていくのは、だからだ。彼らがどんどん、間違った方法で自由を獲得していってしまうからだ。
やがて照の死の真相があらわになる。同時に、このハウスの住人たちのねじれた秘密も暴かれる。その真相や秘密自体よりも、ここに潜んでいる日常の狂気に驚いてしまう。だれもがしあわせになろうとしていて、だれもが楽しく生きようとしていて、それ自体あたりまえでごくふつうのことなのに、なぜかそこから狂気が芽生え、いろんな種類の孤独を養分に、ぐんぐん育っていく。ラストで、照は、今までは考えることもしなかったあらたな思いを抱く。照がずっと目をそらしていたそれは、彼女の得た自由なんかより、もっともっと彼女を解き放したのかもしれない。そう思ったとき、この虫女をはじめていとしく感じる。自分自身の一部のように。