書評

『夏化粧』(KADOKAWA)

  • 2023/07/05
夏化粧 / 池上 永一
夏化粧
  • 著者:池上 永一
  • 出版社:KADOKAWA
  • 装丁:文庫(336ページ)
  • 発売日:2010-05-25
  • ISBN-10:4043647093
  • ISBN-13:978-4043647095
内容紹介:
島の豆腐屋で働く津奈美はシングルマザー。産婆のオバァのかけたまじないのせいで、息子の姿を他人に見えなくさせられてしまった。まじないを解くためには、息子にかけた七つの願いを他人から… もっと読む
島の豆腐屋で働く津奈美はシングルマザー。産婆のオバァのかけたまじないのせいで、息子の姿を他人に見えなくさせられてしまった。まじないを解くためには、息子にかけた七つの願いを他人から奪わなければならないと知り、津奈美は決死の覚悟で陰の世界に飛び込んでいく。願いを奪うとはどういうことなのか。息子にかけた最後の願いとは何か?石垣島の自然と島の伝承を舞台に、若き母親が孤軍奮闘する壮絶な愛の物語。
「時速一六五kmの剛速球をバックネットにのめり込ませたい」

去年インタビューした際に、三十一歳だった池上永一さんが口にした言葉である(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2002年)。時速一五〇kmのそこそこ速い球をミット目がけて放るのではなく、全身全霊を込めて、誰も見たことのないような球を投げる。それが池上さんが小説を書く際に目指している境地なのだ。しかしまた、作家は知っている。剛速球でストライクを取ることの難しさも。が、これまでの三作の長篇作品で、池上さんはあえて暴投を怖れなかった。漫画のように火を吹きながら投じられた一球が、ものすごい勢いで本来の軌道からはずれて、バックネットに突き刺さる。金網にのめり込んだボールがプスプスッという音を発しながら煙を上げ……。そんな光景こそを見せたかったのだ。律儀なストライクなどとっくに見飽きているはずのわたしたちに。

神様のお告げでユタ(巫女)になれと命ぜられた十九歳の綾乃が「ワジワジーッ(不愉快だわーっ)」と抵抗しつつもユタとして成長していく様を描き、日本ファンタジーノベル大賞を受賞したデビュー作『バガージマヌパナス――わが島のはなし』。二二八年も前からマブイ(魂)だけの身となって島を彷徨(さまよ)う盲目の美女・ピシャーマと少年・武志の淡い恋を縦糸に、また神事をおろそかにしたせいで危急存亡の秋(とき)を迎えつつある石垣島の一大事を横糸に、壮大なファンタジー絵巻を織り上げた『風車祭(カジマヤー)』。アジアの要(レキオス)である沖縄本島を舞台に、ウチナンチューと外国人との混血アメレジアンの少女・デニスが世界規模の秘密結社の陰謀を阻止するまでを、沖縄の神話やアメリカのアジア軍事戦略、基地問題、キリスト教の異端思想等々を盛り込みながら描いた超ド級スケールのSF小説『レキオス』

作品を追うごとに球速がアップ。『レキオス』に至っては、とりあえず粗筋をまとめてはみたものの、この程度の説明では何も紹介していないも同然。前人未踏といってもいいほどの球速を計測した記念すべき傑作なのである。その球速アップのためのパワーの源となっているのが、逸脱に次ぐ逸脱とキャラクター造形の妙。「小説の構造や骨格を登場人物が飛び越えてしまうところに物語の醍醐味がある」と語る池上永一さんの作品では、キャラクターは作者の当初の意図を超えて物語世界の中を跋扈(ばっこ)するのだ。

たとえば『風車祭』に出てくる、九十七歳の生年祝い・風車祭を前に長寿に異様なまでの執念を燃やすオバァのフジ。その爆笑を誘う傍若無人な言動で、主人公の武志をすっかり食ってしまっている。フジばかりではない。そのフジに奴隷のようにこきつかわれている可哀想な娘のトミ、全会話を「だからよー」ですます孫のハツ、老人相手のスナックを経営している曾孫の美津子。仲村渠(なかんだり)家の出戻り四世代が絡むパートは、腹筋がブチ切れそうなほどの笑いをもたらしてくれるのだ。その他、武志に切ない恋心を抱く六本足の妖怪豚ギーギー、人形を解体するのが好きな手術おたくの少女など、魅力的な脇役たちによる逸脱的なエピソードの数々。そこにわたしは南米マジック・リアリズム作品との共通点を見たくなる。

日常的な現実世界と西欧型のリアリズムではあり得ない幻想的な出来事が、過去と現在と未来が、渾然と溶け合う。それがマジック・リアリズムの特徴のひとつなのだけれど、現実と幻想、位相の異なる時間をつなぐのが、実は逸脱的エピソードなのである。ガルシア=マルケス『百年の孤独』が良い例だ。マコンド村の創設から消滅までを描いたこの小説には、ブエンディーア一族の波瀾に満ちた逸脱的エピソードが綴られ、それが有機的に本筋に絡むことで豊饒な世界を生み出している。ところが、担当編集者からのストライクを指示するサインにあまり忠実とはいえない池上さんの場合、この逸脱的エピソードの数々が有機的に絡むどころか、本筋を貧(むさぼ)り食ってしまいかねないところが問題といえば問題で。

『レキオス』に登場する美貌の天才学者サマンサ・オルレンショーというキャラクターを見てほしい。哲学にも物理学にも人類学にも通暁(つうぎょう)している世界の頭脳でありながら、露出狂のコスプレ好きで全ての言動をエロスに結びつけずにはおけない淫乱女。倫理観念もゼロ。頭脳以外は全部壊れている池上文学最強のキャラクターなのである。頭の中がカラッポの援交女子高生・広美を洗脳して好き放題に“改造”するくだりは、何度読んでも腸捻転を起こしかねないほど可笑しい。こんなキャラクターが生まれてしまったら、もう制御不可能。作者である池上さんによれば暴れ回るサマンサを止めるどころか、ついていくのがやっとという執筆状態にまで陥ってしまうのだという。

多くの池上作品のファンと同様、こうした驚異的な逸脱思考と立ちすぎるキャラクターを、わたしもまた熱烈支持してやまない。しかし、たとえば、ただでさえ粗筋紹介が不可能なほど多くのテーマが入り組んでいる『レキオス』の場合、サマンサをはじめとする登場人物たちのエピソードを全て本流に合流させるには、一段組五百ページの体裁はあまりにも容量として足りなさすぎる。ああ、どれほどこの倍の分量の『レキオス』が読みたかったか! しかし、生々しい話で恐縮だが、現況の出版界にあってその願いは叶えられるものではないのだ。

いくら時速一六五km剛速球が投げられても、バックネットに突き刺さってばかりでは一軍に上がれない。最新作の『夏化粧』は、まだ著作を四冊しか持たない未来のメジャーリーガーたる池上永一が、球離れの定まらない逸脱しがちな剛腕を少しコントロールしながら、ミットめがけて投げてみた作品なのだ。

主人公は未婚の母の津奈美。ところが、生まれたばかりの息子・裕司は、津奈美以外の誰の目にも見えない。強い呪力を持った産婆のオバァから、「アンマー・クートー・ターガン・ンダン(母親以外は誰も見ない)」というまじないをかけられてしまったせいで。まじないはかけた本人しか解くことができない。ところが肝心のオバァは死んでしまい、遺言に書かれてあったまじないの解き方は何者かの手で真っ黒に落書きされて読むことができないときている。島にあるニガイ(願い)石と呼ばれる星見石を調べている民俗学者のオジィ・正徳(しょうとく)のアドバイスで、井戸の神様と取引をする津奈美。神様が教えてくれたまじないの解き方とは、肉体を捨てた陰(いん)の状態になって、津奈美が裕司にかけた七つの願いを取り戻すことだった。津奈美は命を落とす危険も顧みず、新月の晩、井戸に頭から身を投げるのだが――。

これまでの作品同様、背景に広がっているのは沖縄の古事や神事や神話の世界。最終的には文明の起点の謎にまで迫るという壮大なスケールのタペストリーを顕現させる展開もお馴染みのものだ。が、従来と違って、逸脱は極力抑えられている。主要キャラクターの数もいつもよりは控えめだ。とはいっても、決してパワーが落ちているわけではない。「東京ドームでコンサートができますように」だの、「オリンピックで金メダルを獲ってほしい」だの、「映画スターになってほしい」だの、とんでもない願いばかり我が子にかける津奈美なんか序の口。少数精鋭の登場人物たちの造形は相変わらず強烈なまでに個性的なのである。

「みなさんごめんなさい。私は産婆になって取り上げた総勢二千三百六十九人の子供たち全員に、まじないをかけてしまいました」。産婆のオバァの遺言が公開されて混乱をきわめる葬儀場の光景に抱腹絶倒。世界一速く走ることだけを願うアメリカの女子陸上選手が、陰の状態に入ったことで幽霊のようにしか見えなくなってしまった津奈美を怖がって暴れるスラップスティックなシーンに呆然自失。島にサスペンスドラマを撮りに訪れている人気女優のアクの強い性格にサマンサ・オルレンショーを思い出して大笑い。産婆のオバァに想像力を授けてもらった元いじめられっ子の少女・千佳子が手下の男子に聞かせる妄想話に口元がゆるみ、豆腐しか食べないベジタリアンのハスキー犬に頬がゆるむ。この作品にもまた様々なレベルの笑いと驚きがちりばめられているのだ。

しかし、今回目立つのはそうした哄笑や驚きの数々というより、むしろその後に必ず用意されている、涙がこぼれかねないほど感動的なエピソードのほうだろう。スタートの反応が超人的なまでに速いため「フライングの女王」とバカにされている女子陸上選手が、津奈美から逃げることで実現させてしまう世界一の走り。その感覚を表現し得たくだりの文章の美しさと、願いを実現させた彼女が得る至福の境地に溢れる優しい感情は、忘れがたい爽やかな読後感を残す。知性も美貌も演技力も備えているのに、映画出演を嫌い、安っぽいドラマやバラエティ系の番組にしか出演しようとしない人気女優のパートもまた然り。ワガママで自信過剰で意地悪な言動に笑わせられた後だけに、彼女が小銭稼ぎに精を出すその真相がわかった時の切なさはいや増す。我が子のためなら他の人の願いを奪ってもかまわないと、津奈美が少しずつ鬼の形相をまとっていく過程も、これまでの池上作品にはあまり見られなかった苦味というテイストを伴っている。しかも、そうしたエピソードの数々が伏線という約束事の上から大きくはずれることなく、端正に本筋へと収束されていくのだ。

綾乃といい、フジといい、サマンサといい、そして津奈美といい、池上作品には、はたからすれば迷惑かもしれないけれど、自信をもって思い通りの生をまっとうしようと奮闘するキャラクターが多々登場する。そのパワフルで率直な生き方に向ける作者の視線は、常に肯定的で優しい。わたしは池上作品の最大の美点をそこに見ている。そしてその特長が、これまでにないくらいの深い感情を伴って了解できるのが『夏化粧』という物語なのだ。強烈なキャラクターにつられて筆が暴走気味に走る箇所がほとんど見られないこの小説は、行儀がいい分、もしかしたらこれまでの池上作品を愛読してきた人にはほんの少し物足りなく感じられるかもしれない。が、わたしの感想は違う。これは池上永一の新しい可能性を示唆するという意味で大切な一冊のはずだ。いつか満員のヤンキースタジアムで時速一六五kmの剛速球をミットのど真ん中にズバーンと決める、その日の到来を予感させる作品なのである。

【この書評が収録されている書籍】
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド / 豊崎 由美
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:アスペクト
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2005-11-29
  • ISBN-10:4757211961
  • ISBN-13:978-4757211964
内容紹介:
闘う書評家&小説のメキキスト、トヨザキ社長、初の書評集!
純文学からエンタメ、前衛、ミステリ、SF、ファンタジーなどなど、1冊まるごと小説愛。怒濤の239作品! 560ページ!!
★某大作家先生が激怒した伝説の辛口書評を特別袋綴じ掲載 !!★

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夏化粧 / 池上 永一
夏化粧
  • 著者:池上 永一
  • 出版社:KADOKAWA
  • 装丁:文庫(336ページ)
  • 発売日:2010-05-25
  • ISBN-10:4043647093
  • ISBN-13:978-4043647095
内容紹介:
島の豆腐屋で働く津奈美はシングルマザー。産婆のオバァのかけたまじないのせいで、息子の姿を他人に見えなくさせられてしまった。まじないを解くためには、息子にかけた七つの願いを他人から… もっと読む
島の豆腐屋で働く津奈美はシングルマザー。産婆のオバァのかけたまじないのせいで、息子の姿を他人に見えなくさせられてしまった。まじないを解くためには、息子にかけた七つの願いを他人から奪わなければならないと知り、津奈美は決死の覚悟で陰の世界に飛び込んでいく。願いを奪うとはどういうことなのか。息子にかけた最後の願いとは何か?石垣島の自然と島の伝承を舞台に、若き母親が孤軍奮闘する壮絶な愛の物語。

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本の話 2002年11月号

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