書評
『進歩主義からの訣別―日本異質論者の罪』(読売新聞社)
「戦後派」知識人への宣戦布告
世紀末を迎えて何だか日本は元気がない(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は1996年)。政治も経済もともすれば沈滞のムード。その中でやたら元気がよいのは、粗探しもかくやと思うほどのバッシングの嵐だけだ。いつもは威勢のよい官僚も、今はもの言えば唇寒しという心境か、誰も口を開こうとしない。そこに短期的ではなく長期的なタイムスパンをもってメッセージを提示した本が現れた。著者は、これまでも折に触れて外への発言を試みてきたという意味での異色の大蔵官僚である。元気がないのは知の世界も同じこと。そこで著者は知の世界に殴り込みをかけ、平地に乱をおこすが如くたちまち論争軸を打ちたててしまった。
そのためには、まず敵を見定めなくてはならぬ。論敵は誰か。アメリカン・ウェイ・オブ・ライフを原体験とする自分史を振り返る中で、敵はかつての自分であったと告白する。そして「経済自由主義」や「モノの民主主義」への何らの反省なく、「改革派」になってしまった「アプレゲール(戦後派)」の知識人たちに、著者は宣戦を布告する。
論争もいたってわかりやすく、二分法的議論を入れ篭(こ)に仕立てていく手際は鮮やかだ。戦後改革における戦前と戦後の歴史的断絶の意識に加えて、新古典派モデルとアメリカン・デモクラシーの相互作用によって「進歩派」知識人が作られていく。だとすれば、いわゆるリビジョニストの「日本異質論」と、「進歩主義」を信奉して今や「改革派」となった知識人の考え方とは、根本において同じなのだ。「リビジョニストたちは、日本のアプレゲール知識人たちの正確なミラー・イメージ」との著者の指摘は鋭い。
「官」と「民」、「グローバル化」と「ローカル化」などを論じながら、著者は非歴史的普遍的価値の呪縛から解放され、歴史的文化的価値へとパラダイムを転換する必要性を説く。無論これらのアイディアは、すべてが著者の専売特許ではない。むしろ著者の功績は、独自の見解をもつ知識人の個別の議論を一つの論争軸に再構成した点にある。本書の議論の基盤を提供した大蔵省の研究会を、学会人や学界人としての枠から自由な人々による陣立てで揃えた手腕に、著者の官僚としてのしなやかさとしたたかさを見る思いがする。