書評

『ドグラ・マグラ』(角川書店)

  • 2017/07/12
ドグラ・マグラ / 夢野 久作
ドグラ・マグラ
  • 著者:夢野 久作
  • 出版社:角川書店
  • 装丁:文庫(324ページ)
  • 発売日:1976-10-13
  • ISBN-10:4041366038
  • ISBN-13:978-4041366035
内容紹介:
昭和十年一月、書下し自費出版。狂人の書いた推理小説という異常な状況設定の中に著者の思想、知識を集大成する。“日本一幻魔怪奇の本格探偵小説”とうたわれた、歴史的一大奇書。(なだいなだ)
最初に読んだのは確か一九六七年だったと思う。もう二十七年前か。凄い歳月がたってしまったものだ。

大学時代のある日のこと、男の子が「ドグラ・マグラって知ってる? 凄い本なんだよ」と言って、一冊の古ぼけた本を貸してくれた。私の記憶ではハヤカワのポケット・ミステリ版だったと思うが、あまり自信がない。

巻頭歌の「胎児よ/胎児よ/何故躍る/母親の心がわかって/おそろしいのか」、そして、冒頭の「……ブウウーーンンンーーンンンン……」という一節から私はいきなりこの空前絶後(という言葉はけっして大げさではない、年々歳々その思いは強まるばかりである)の狂人小説に引きずり込まれて行った。

ストーリーを説明してもあまり意味はないと思う、というより、ほんとうのところどういうストーリーなのか説明しがたい内容の小説なのだ。どこからどこまでがほんとうでどこからどこまでが嘘(夢、妄想)なのか判然としない。その判然としないところ、曖昧混沌としたところが何よりもの魅惑という困った小説なのだ。

そもそもこの設定自体もアヤシイのだが、とりあえずこの小説は、ある精神病院に収容されている一青年患者が一息に書きあげた手記という体裁をとっている。その手記の中では、美貌の青年の呉(くれ)一郎とやっぱり美貌の少女モヨ子との、はるか中国の唐時代にまでさかのぼるおそるべき因果の恋、そして、それをめぐる二人のマッド・サイエンティスト正木敬之博士と若林鏡太郎博士のすさまじい頭脳闘争がつづられている。それも、時にあほだら経あり、手記あり、新聞記事の切り抜きあり、映画の説明あり、学術論文あり……という絢欄たる語りくちのものである。

かなり長い小説なのだが、読み出したらもう止まらない。がつがつぐんぐんと読んでしまって、読み終わったときには、まさに空前絶後の心理状態となっていた。目かくしをされて体をぐるぐるまわしされて、いきなり目かくしをはずされると、クラクラッとしてしまう。それを強烈にした感じだった。

『ドグラ・マグラ』にビックリ仰天してからまもなく、もう一人『ドグラ・マグラ』に取り憑かれている男子学生と知り合った。彼は「将来、子どもが生まれたら、男の子の場合は呉一郎、女の子の場合はモヨ子とつけるんだ」と言っていた(結局、数年後に女の子が生まれたときにはマオと命名していた。彼はその頃、毛沢東主義者と化していた、ので)。

だから、一九六九年に三一書房から『夢野久作全集』全七巻が出たときは狂喜して買って、夜な夜なその小説世界に耽溺した。

『ドグラ・マグラ』は昭和十年に書きおろし出版(自費出版だったという)されたのだが、その広告に「夢野氏がこの十年間練りに練った秘材で、氏自ら”之を書く為に生きてきた”と言うものだ」とあるが、事実その通り、夢野久作は『ドグラ・マグラ』出版のその翌年、昭和十一年に脳溢血で急死している(四十七歳)。

好みという点だけで言うなら、私は『氷の涯』『あやかしの鼓』あるいは『いなか、の、じけん』といった小説のほうが好きなのだが、しかし、量質両面の凄味では何と言っても『ドグラ・マグラ』が最高だ。つい先日、『夢野久作全集』の「解題」部分を読んでいて、『ドグラ・マグラ』について江戸川乱歩が当時、「『ドグラ・マグラ』という狂気小説は、僕には批評の資格のない、よく分らぬ側の作品……(略)僕の不感症の部分に入っているのかも知れない」とコメントしていたというのを知って、とても興味深く思った。

江戸川乱歩の猟奇性や変態趣味と、夢野久作のそれとは根本的に別物だったというのがよくわかる。乱歩はそのあたりのことを、とても正直に告白していると思う。この両者の違いは……けっこう面白く難しい研究テーマで、私なんぞの手には負えないが……基本的には社会的規範とかモラルの枠組にたいする感じ方の違いなのではないかと思う。

乱歩の場合は規範とかモラルというのは確固として、自明のこととして存在していて、それ故に猟奇とか変態の意味も鮮やかに魅力的に浮かび上がって来るという仕掛けになっているように思うが(そこに乱歩の大衆性の秘密がある)、夢野久作の場合は違う。社会的関係の中で語られるようなものではなく、まさに一個人の「脳髄の地獄」であり、絶対猟奇、絶対変態といったものを描き出しているのだ。

『ドグラ・マグラ』は何ぶんにも長い小説で、しかもおそろしく迷宮的構成になっているうえ、何と言ったらいいのか……厭な魔力のようなものを持っている。あまりにも濃厚で鮮烈な悪夢のように、読む人間の生気とか気力とかを吸い取ってしまうようなところがあるのだ。他の人は知らないが、少なくとも私は、吸い取られる。こわい小説である。

だから私は今まで、そう、この二十七年間、魅入られているにもかかわらず三回しか読み直していない。

つい最近、ロベルト・ビーネ監督のサイレント映画『カリガリ博士』(一九一九年。これも大学時代にあるイベントで見た)の廉価版のビデオが出たので、買って見たが、精神病院の庭の場面が『ドグラ・マグラ』そっくりで、何かデジャブのような、へんてこな懐かしさを感じた。

一九八八年に松本俊夫監督が『ドグラ・マグラ』の映画化に挑戦した。怪人・正木博士は桂枝雀で、面妖な一面が出ていて、なかなかよかった。ただ呉一郎を演じたのが私が二十数年間育んで来たイメージとは大きく違って、やけに子ども顔の俳優だったのにはガックリ来た。

【この書評が収録されている書籍】
アメーバのように。私の本棚  / 中野 翠
アメーバのように。私の本棚
  • 著者:中野 翠
  • 出版社:筑摩書房
  • 装丁:文庫(525ページ)
  • 発売日:2010-03-12
  • ISBN-10:4480426906
  • ISBN-13:978-4480426901
内容紹介:
世の中どう変わろうと、読み継がれていって欲しい本を熱く紹介。ここ20年間に書いた書評から選んだ「ベスト・オブ・中野書評」。文庫オリジナルの偏愛中野文学館。

ALL REVIEWS経由で書籍を購入いただきますと、書評家に書籍購入価格の0.7~5.6%が還元されます。

ドグラ・マグラ / 夢野 久作
ドグラ・マグラ
  • 著者:夢野 久作
  • 出版社:角川書店
  • 装丁:文庫(324ページ)
  • 発売日:1976-10-13
  • ISBN-10:4041366038
  • ISBN-13:978-4041366035
内容紹介:
昭和十年一月、書下し自費出版。狂人の書いた推理小説という異常な状況設定の中に著者の思想、知識を集大成する。“日本一幻魔怪奇の本格探偵小説”とうたわれた、歴史的一大奇書。(なだいなだ)

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小説現代 1994年12月

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