書評

『アニルの亡霊』(新潮社)

  • 2022/08/12
アニルの亡霊 / マイケル・オンダーチェ
アニルの亡霊
  • 著者:マイケル・オンダーチェ
  • 翻訳:小川 高義
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(348ページ)
  • 発売日:2001-10-31
  • ISBN-10:4105328034
  • ISBN-13:978-4105328030
内容紹介:
「水夫」と名付けられた骨の身元を探る旅が、引き裂かれた愛を、隠された過去を、見定めがたい敵と味方を炙り出す。内戦下のスリランカを舞台に、生死を超えて手渡されて行く叡智と尊厳を描き出す。
九四年、マイケル・オンダーチェの初めての翻訳小説『ビリー・ザ・キッド全仕事』を開いた時の興奮は今も熱く思い出すことができる。カッコイイ! 実在のヒーローの短い人生を、詩や写真、インタビューなどで再構成。話者が目まぐるしく変わる前衛的な作風に、すっかり魅了かつ幻惑されてしまったのだ。それから二年後に翻訳されたブッカー賞受賞作『イギリス人の患者』をすぐさま貪り読んだのは言うまでもない。そして最後の一行、最後の句点に至った時、『ビリー――』の頃の派手な身振りはなりを潜め、それに代わって、かつては派手な手法の陰に隠れてかすかにしか感じ取れなかった美点が深化を遂げているその成熟ぶりに、強い驚きと感銘を受けたのである。

オンダーチェの美点、それは一つの出来事、一つの時間、一人の誰かに、多角的な光を当てる誠実な視線だ。善と悪といったそそり立つ対立の崖のどちらかに身を置き、他方を断罪するのではなく、はざまで砕け散る波が生み出す小さな泡、その一粒一粒がはじける幽(かす)かな音に耳をすませる作家なのである。男と女、白人と有色人、年輩者と若者、それぞれの間で生まれる複数の声を重ね合わせることで、戦争が生み出す哀しみや、失われてしまった愛と育まれる愛の様相を立体化してみせた『イギリス――』は、そんな誠実な視線が生み出した傑作小説だったのだ。

一九八〇年代半ばから九十年代初めにかけて、政府軍・反政府過激派・分離独立派ゲリラ、三つの勢力が争う状況にあったスリランカ内戦が背景の『アニルの亡霊』もまた、多くの声が織りなす重層的な物語になっている。アニルは女性法医学者。スイスの人権機関から「スリランカで組織的な大量殺人が行われているか調査せよ」という命を受けた彼女が、十五年ぶりに故国の土を踏むところからこの物語は始まる。調査のパートナーとして政府から派遣されたのが考古学者のサラス。しかしアニルは、彼が政府の犬として自分を監視する役目を担っているのではないかと疑い、なかなか打ち解けることができない。やがて二人は、謀殺の証拠になるかもしれない白骨死体を発見するのだが――。

その他、サラスの弟で医師のガミニ、アニルとサラスが発見した白骨死体の復元を手伝うアーナンダといった人物の人生が、アニルとサラスのそれに深く絡んでいく様を、オンダーチェは主に三つの層の物語を呼応させることで描いていく。登場人物たちの現在進行形の物語、回想譚、死者たちのエピソード。そして、この小説では現実の時間が経過していけばいくほど、つまり物語が先へと進むほどに、過去の声が介入する頻度は高まっていくのだ。白骨死体の謎が明らかになっていく過程で、否応なくアニルが直面することになる故国の悲惨な現実。それは、彼女の心を過去へと、失った者や場所への想いへと引き戻さずにはおかない。真っ直ぐな正義感を持つ魅力的な女性アニルを前にして、サラスは自殺した妻のことや、己の事なかれ主義的な生き方を振り返らずにはいられない。ひっきりなしにかつぎ込まれる負傷者を覚醒剤を用いてまで不眠不休で治療し続けるガミニは、兄の妻を愛し、彼女を救えなかった痛恨の過去から逃れることができない。かつては仏像に目を入れる絵師として一流の腕を持ちながら、愛する妻を失い廃人同様と化しているアーナンダは、白骨死体の頭部を復元する際にも妻の面影を投影せずにはいられない。

ドイツの劇作家ハイナー・ミュラーがこんなことを書いている。「あらゆる芸術は、自分の書いたものも含めて、死者の記憶である」と。この小説もまた死者の記憶をめぐる物語だ。そして、弔いの物語でもある。人間は物語ることで、刻一刻と死につつある現在を弔っている。刻一刻とその輪郭を失いつつある死者を弔っている。弔い続ける、物語り続けることで、過去や死者を忘却の淵から救い、と同時に生者もまた自らが物語る死者の記憶によって慰藉(いしゃ)されもするのだ。貴賎なく比類ない個人の生。にもかかわらず、たとえば、戦争という大事の中では、小さな泡扱いしかされない名も無き個人の生。オンダーチェはこの小説の中で、そうした小さな泡たちの幽かな声を、時に詩を思わせるくらい密度が高く、にもかかわらず風通しがよいという奇蹟のごとく美しい文章によって拾い上げ、そして読者に伝える。我々はなべて過去という亡霊と共に生きている、死者と共に生きよ、と。

『アニルの亡霊』の最後の一行、最後の句点に至った時に覚える深い感動をすべての生者に味わってほしい。絵師に戻ったアーナンダが大きな仏像の目の高さから見る世界の、内戦によってすら傷つけられることのない世界の、絶対的肯定の証(あかし)として広がるその光景を、すべての生者に実感してほしい。テロと報復という新たな哀しみに世界が覆われている今だからこそ、なおのこと(ALL REVIEWS事務局注:本書評執筆時期は2001年)。

【この書評が収録されている書籍】
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド / 豊崎 由美
そんなに読んで、どうするの? --縦横無尽のブックガイド
  • 著者:豊崎 由美
  • 出版社:アスペクト
  • 装丁:単行本(560ページ)
  • 発売日:2005-11-29
  • ISBN-10:4757211961
  • ISBN-13:978-4757211964
内容紹介:
闘う書評家&小説のメキキスト、トヨザキ社長、初の書評集!
純文学からエンタメ、前衛、ミステリ、SF、ファンタジーなどなど、1冊まるごと小説愛。怒濤の239作品! 560ページ!!
★某大作家先生が激怒した伝説の辛口書評を特別袋綴じ掲載 !!★

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アニルの亡霊 / マイケル・オンダーチェ
アニルの亡霊
  • 著者:マイケル・オンダーチェ
  • 翻訳:小川 高義
  • 出版社:新潮社
  • 装丁:単行本(348ページ)
  • 発売日:2001-10-31
  • ISBN-10:4105328034
  • ISBN-13:978-4105328030
内容紹介:
「水夫」と名付けられた骨の身元を探る旅が、引き裂かれた愛を、隠された過去を、見定めがたい敵と味方を炙り出す。内戦下のスリランカを舞台に、生死を超えて手渡されて行く叡智と尊厳を描き出す。

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初出メディア

波

波 2001年11月号

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