書評
『生のものと火を通したもの (神話論理 1)』(みすず書房)
神話とははるか昔に生じた天変地異のおぼろげな記憶でもなければ、ある民族のもつ基本的感情をロマンチックに描いたものでもない。それは身近にある事物やイメージを巧みに組み合わせ、物語に仕立てあげることで、今日であれば抽象的な観念を駆使して行なうはずの論理的思考を実践することだ。これがクロード・レヴィーーストロースが提示した、構造主義による神話解釈の前提であった。本書に始まる4巻(邦訳では5分冊)からなる『神話論理』は、20世紀を代表するこの文化人類学者が、その壮年時代に20年の歳月をかけて完成させた、長大な神話研究である。その規模の壮大さは、ワグナーの楽劇に匹敵するといってよい。
鳥の巣を漁って卵を盗み出す男の物語が、まず登場する。著者が若き日に調査研究した、ブラジル中部のボロロ族の神話である。著者はここに料理の起源をめぐる人間の重要な認識が語られているとする。ある民族に固有の、正統的にして唯一の神話があるのではない。いかなる神話も隣接するさまざまな異文に囲まれており、それらを相互に変換可能なものと見たときに、はじめてその意味が明らかとなるのだ。こうした信念に応じて本書では、文化の媒介者であるジャガーが人間に火を教えたという神話、料理の起源の神話……といった風に、インディオの神話が次々と紹介され、比較検討されてゆく。続く巻では舞台は少しずつ北アメリカへと移行し、蜂蜜と煙草の起源を語る神話、カヌーによる旅行の神話など、2000頁にわたって813の神話が取り上げられる、そのうち812までがアメリカ先住民の神話であるが、なぜか一編だけ、スサノオノミコト、つまり日本神話への言及がある。著者はかつてもし日本へ行って調査できる機会があれば、ぜひアイヌの神話を研究したいという口吻を漏らしたことがあったが、アメリカ先住民の神話という巨大な文脈のなかに、『古事記』を通して日本人が親しんできた物語がすんなりと置かれてしまうことのスリリングな感触を、読者にも体験してほしいと思う。
すべての神話は、人間が自然から文化へと移行するという巨大な物語の変奏であり、たとえどれほど小さな物語でも普遍的なものを抱いている。人間をめぐるこの確信が著者にかくも大きな書物を執筆させた。レヴィ=ストロースは現在100歳に達しようとしている。それでも高齢を押して、狂牛病を招いてしまった人類は、動物世界の秩序を乱してしまった以上、以後動物を口にすることを誓って禁ずるべきだと、矍鑠たる姿勢で現代文明に警告を発しているさまを見ると、彼の文化人類学者としての信念の固さに驚かざるをえない。その大著がいよいよ日本語に翻訳されはじめたと思うと、わたしは感動を禁じえない。
【この書評が収録されている書籍】
鳥の巣を漁って卵を盗み出す男の物語が、まず登場する。著者が若き日に調査研究した、ブラジル中部のボロロ族の神話である。著者はここに料理の起源をめぐる人間の重要な認識が語られているとする。ある民族に固有の、正統的にして唯一の神話があるのではない。いかなる神話も隣接するさまざまな異文に囲まれており、それらを相互に変換可能なものと見たときに、はじめてその意味が明らかとなるのだ。こうした信念に応じて本書では、文化の媒介者であるジャガーが人間に火を教えたという神話、料理の起源の神話……といった風に、インディオの神話が次々と紹介され、比較検討されてゆく。続く巻では舞台は少しずつ北アメリカへと移行し、蜂蜜と煙草の起源を語る神話、カヌーによる旅行の神話など、2000頁にわたって813の神話が取り上げられる、そのうち812までがアメリカ先住民の神話であるが、なぜか一編だけ、スサノオノミコト、つまり日本神話への言及がある。著者はかつてもし日本へ行って調査できる機会があれば、ぜひアイヌの神話を研究したいという口吻を漏らしたことがあったが、アメリカ先住民の神話という巨大な文脈のなかに、『古事記』を通して日本人が親しんできた物語がすんなりと置かれてしまうことのスリリングな感触を、読者にも体験してほしいと思う。
すべての神話は、人間が自然から文化へと移行するという巨大な物語の変奏であり、たとえどれほど小さな物語でも普遍的なものを抱いている。人間をめぐるこの確信が著者にかくも大きな書物を執筆させた。レヴィ=ストロースは現在100歳に達しようとしている。それでも高齢を押して、狂牛病を招いてしまった人類は、動物世界の秩序を乱してしまった以上、以後動物を口にすることを誓って禁ずるべきだと、矍鑠たる姿勢で現代文明に警告を発しているさまを見ると、彼の文化人類学者としての信念の固さに驚かざるをえない。その大著がいよいよ日本語に翻訳されはじめたと思うと、わたしは感動を禁じえない。
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