かつて『エラノス年報』の一九五一年版『人間と時間』を卒読したとき、古代印度人の思考における時間と永遠について論じたエリアーデや、マツダ教の円環的時間を論じたヘンリー・コービン、イスラーム思想における時間の構造について説いたマッシニョンなどの多彩な論議に接して、わたしは時間の観念に関するある根底的な問いかけが、それとはっきり名指されていないような場合にも、現代世界にたいして大がかりに提起されているのではあるまいかという予感を漠然と感じたことがある。山口昌男氏編解説の『未開と文明』をいま通読した感想は、一口にいえば、この同じ問いかけが依然としてアクチュアルなまま持ち越されている、というよりはいよいよのっぴきならない形で差し迫ってきた、という切迫感に似たものであった。
レヴィ=ストロース、エリアーデ、E・R・リーチのような人類学、宗教学の名だたる専門学者から、奔放なエッセイズムを駆使して語るディレッタント、A・マックグラシャンまで、十指に余る諭者のエッセイを集めた本書の内容を要約することはもとより不可能であろうし、またわたしのような者の任でもない。しかし、多かれ少なかれ各論文に底流する主導低音をかりに一言にして要約するとすれば、それは時間に関する、したがってまた歴史に関する、わたしたちの既成観念にたいする根底的な挑戦にほかならないといえよう。
要するにこうである。すなわち進歩の強迫観念にそって流れてきた近代市民社会の直線的な時間構造は、ほぼ過去三世紀間に巨大な産業社会の成長を可能にしたが、それとひきかえに「進歩の気が狂ったような画一性」(マックグラシャン)をもたらした。一方、この画一的な歴史主義の専制の下に闇に葬られ、抑圧されてきたもうひとつの時間哲学は、かつて失われた楽園のように絢爛と咲きほこり、いまなおひそやかに西欧型市民社会の表層の外と下とに、終末と再生の循環のうちに美しい円環を描きながら不思議な光芒を放って回転する魅惑的な天体でありつづけている。二者択一はかくて、一方に進歩の画一性が望まれ、一方に失われた故郷、すなわち中心への回帰が遠望されるという見取図のなかでおこなわれることになる。
ここから先はわたしのいくぶん我儘な読書になることをお許し頂きたい。市民社会がその直線的な時間観念の狭窄衣を身にまとって、みずからは時間奴隷となり、他には収奪と管理を専らにしてきた数世紀の間、もうひとつの時間哲学によって立つ第三世界は、周知のように、非人の眠りを眠ってきた。いいかえれば文明が専制君主として未開に君臨してきたということである。だが、もともと文明とは高度化した奴隷労働の所産にほかならないものであったはずだとすれば、第三世界数世紀の非人の眠りの真の意味は、西欧近代という名の宮廷職人たちが宇宙ロケットのような風変りな空中煙火術の新手を考えつく頃合いまで、豪奢な無為のうちにうつらうつらと過した王侯の眠りとして顕現してきはしまいか。
これは語の真正の意味の本末顚倒ではない。王のものは王に、奴隷は本来の分限にたち戻るという根源復帰の運動である。知の本質はふたたび非人=王に帰属し、奴隷の専有物ではない。したがって無為と遊戯こそが知の本質となり、労働・蓄積・生産を原理とする奴隷の知は、早晩、知的活動の領域においても従の部分と化するにちがいない。