書評
『秋のホテル』(晶文社)
兎と亀の恋物語
「本を読むのは亀。兎には本なんか読んでる暇はないのよ。勝つのに忙しくて」ここでの本とは本一般ではなく、女性用のロマンスもののこと。イソップの『兎と亀の話』にからめられている。
「わたしの小説で男と結ばれるのは、鼠みたいな、おとなしい女でしょう? 男が嵐のような情事をともにした高慢で魅力的な女の方は、闘争に敗北して二度と姿を現さないでしょう? いつでも亀が勝つのよ。むろん、これは嘘だわ。現実の人生では、むろん兎が勝つのよ。いつだって」
キマってるセリフだが、それを言うのは実在の小説家ではなく、イギリスの小説、アニータ・ブルックナーの『秋のホテル』の主人公だ。
イーディス・ホウプ。もっと派手な筆名で、現実には兎に負けるしかない亀、というより兎族の相手になる男とは縁のない亀族の女のためにロマンスものを書いているぱっとしない一族の一人。三十九歳のいままで結婚の経験はない。
人騒がせなことの嫌いなそんな彼女が、ごく最近にとんでもない不始末をしでかし、その罰として、友人の手配でイギリスから遠く隔たったジュネーヴ湖畔のホテルに島流しされる。
時はすでに九月の末。シーズンオフのその高級ホテルには何人かの常客が滞在しているだけ。ブルジョワの夫人と令嬢、スイスの名門夫人、やはり夫がイギリスの『貴族名鑑』に名前ののっているなんとか夫人。いずれも兎のなかの兎たちだ。
ひっそりとしているだけではなく、華やぎもあるその見ず知らずの場所にイーディスは用心深く入っていく。兎の中に亀一匹。
なじみのない世界は彼女に沈黙を強制する。すでに冬仕度をはじめている湖畔の灰色の眺めは傷心をかかえている彼女の胸にしみる。沈黙に耐えられなくなると部屋にもどって便箋を取り出して書きだす。最愛のデヴィッド……と。
売れ残りと見られているのは当然として、周囲からは男性の経験が一度もないとさえ思われているのだが、ここへ島流しされるまで妻子あるデヴィッドとひそかに逢瀬を重ねていた。重ねていたどころかデヴィッドへの愛に身を焼いていた。そのデヴィッドとの関係もいまは覚束なくなってしまっていて、手紙は書いても投函はされない。
彼女がしでかしたとんでもない不始末がかかわるのでそれを披露したいのだが、そうしたのではこれから読んでみたいと思っている人の興をそぐことになるので、一度はデヴィッド以外の男性と結婚する決心をした、とだけ言っておく。
同じ決断をもう一度迫られて彼女の心は揺れる。湖畔のホテルに兎を相手にしつけている男性が現れて、求婚されるのだ。
「あなたの笑顔、ほんのわずかだけど、冷たいわね」
「もっと親しくなってくだされば、ほんとうの冷たさが、おわかりになりますよ」
イーディスの心の揺れは読んでいてつらくなるくらい克明にたどられる。亀のなんのとはもう言っていられない。女そのものが現れる。
女のなかの女が心のたけをこめてひとつの結論にたどりつくのだもの、読後に深々とした印象が残らないわけがない。男が読んでさえそうだ。
ブルックナーの愛読者には意外と男性が多いのだ。
小説もおおむね女ものと男ものに区分けされていて、両用のきく作品はじつに数少ない。女性作家だからそれができたというわけではない。稀有な才能だからだ。
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