書評
『天使の記憶』(新潮社)
若手天才フルート奏者ラファエルのもとに現れた、メイド志望のドイツ娘サフィー。二人はほどなく結婚するものの、息子が生まれてもなおサフィーはラファエルに心を閉ざす。ところが、ある日突然、サフィーは激しい恋に落ちる。相手は楽器の修理職人アンドラーシュ――と紹介すれば、よくあるタイプのラブストーリーかと思われてしまうかもしれないけれど、答えはイエスかつノー。
物語の旋律を奏でているのは、たしかに愛だ。しかも、三角関係の。けれど、それを支えるリズムは慈悲と無情の貌(かお)を併せ持つ“時間”であり、和声は偶然と必然の交差を司る“運命”だ。そしてタクトを振るのは、すべての生と死を見つめる無言の指揮者“歴史”なのだ。簡単に忘れ去られてしまう多くの生と死、そして愛。この小説はミステリアスな女性を軸とした愛の旋律を奏でる中、そんな記録にも記憶にも残らない小さな命を広漠たる歴史のスコア上にくっきり刻印し、鮮やかで深い読後感をもたらすことに成功している。
なぜ、サフィーは愛してもいない男と結婚したのか。なぜ、サフィーは故国を捨てたのか。なぜ、サフィーは我が子の誕生を恐れたのか。なぜ、サフィーはアンドラーシュを愛したのか。たくさんの「?」が徐々に明らかになるうちに、読者の眼前には被害者と加害者を共に傷つけずにはいられない戦争の無惨な光景が広がっていく。無垢な存在として生まれながら、他者を傷つけずには生きていけなくなってしまう人間、その善悪の彼岸を超えた不思議に思いを至らせる作者の重奏的な語り口が見事だ。深遠なテーマを通底させながらも、読みやすいラブストーリーの筋立てでぐいぐい小説内世界に読者を引き込んでいくリーダビリティ高い構成もまた。
「しっかりと目を開いて見るがいい。あなたの周囲のあらゆるところで、物語は続いているのだから」という結びの一文が、胸にこたえていつまでも忘れられそうにない。
【この書評が収録されている書籍】
物語の旋律を奏でているのは、たしかに愛だ。しかも、三角関係の。けれど、それを支えるリズムは慈悲と無情の貌(かお)を併せ持つ“時間”であり、和声は偶然と必然の交差を司る“運命”だ。そしてタクトを振るのは、すべての生と死を見つめる無言の指揮者“歴史”なのだ。簡単に忘れ去られてしまう多くの生と死、そして愛。この小説はミステリアスな女性を軸とした愛の旋律を奏でる中、そんな記録にも記憶にも残らない小さな命を広漠たる歴史のスコア上にくっきり刻印し、鮮やかで深い読後感をもたらすことに成功している。
なぜ、サフィーは愛してもいない男と結婚したのか。なぜ、サフィーは故国を捨てたのか。なぜ、サフィーは我が子の誕生を恐れたのか。なぜ、サフィーはアンドラーシュを愛したのか。たくさんの「?」が徐々に明らかになるうちに、読者の眼前には被害者と加害者を共に傷つけずにはいられない戦争の無惨な光景が広がっていく。無垢な存在として生まれながら、他者を傷つけずには生きていけなくなってしまう人間、その善悪の彼岸を超えた不思議に思いを至らせる作者の重奏的な語り口が見事だ。深遠なテーマを通底させながらも、読みやすいラブストーリーの筋立てでぐいぐい小説内世界に読者を引き込んでいくリーダビリティ高い構成もまた。
「しっかりと目を開いて見るがいい。あなたの周囲のあらゆるところで、物語は続いているのだから」という結びの一文が、胸にこたえていつまでも忘れられそうにない。
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