書評
『千尋の闇〈上〉』(東京創元社)
今年のオモシロ本ベストスリーに入ること必定の傑作『抱擁』(新潮社)の作者A・S・バイアットがこんなことを書いている。
「芸術は、政治のため、教育のためにあるのではなく、まず何よりも楽しむために存在するのであり、楽しむことができなければ無にひとしい」
私もそう思う。もちろん、楽しみには様々な側面があるのだが、物語が起伏に富んでいて飽きさせず、人物造型に深みもあり、そのうえ文学上の仕掛けも凝らされている(が、それは決して仕掛けのための仕掛けであってはならず、物語の面白味を強化するための補佐的な役割を果たしていなければならない)ときたら、たいていの人にとって「楽しい芸術作品」ということになるのではないだろうか。
ロバート・ゴダードの歴史ミステリー『千尋の闇』はその条件をクリアしている一冊なんである。元歴史教師マーチンが、今世紀初頭に失脚したイギリスの青年政治家が遺した回顧録の謎を追うことで、記録文書にもとづく歴史もまた、それを記述する書き手の立場や心情によって、様々な解釈が施される虚構にすぎないということを看破。理由もなく最愛の婚約者に去られ、と同時に閣僚の座をも追われた前途有望な青年政治家の人生が明らかにされていくにつれて、マーチンの身辺もまた風雲急を告げ始めるという本書は、読み出したらやめられない、まさにページターナーな物語になっている。
過去と現代のロマンスや謎が、歴史的な文書を軸に呼応し合うという仕掛けは、冒頭に挙げたバイアットの『抱擁』や、ピーター・アクロイドの『チャタトン偽書』(文藝春秋)を思い起こさせるが、面白さでもその二冊に負けてはいない。最初は簡単に解けそうな謎の探究から始まるものの、その探究がまた新たな謎や殺人事件を呼び、登場人物の敵味方も錯綜する。真実は虚偽に、虚偽は真実に、語りは騙(かた)りへとめまぐるしく変化し続ける本書は、小説を読む喜びを十全に伝えてくれるという点で、自信をもって万人に勧められる「楽しい芸術作品」なんである。
ただし、様々に張り巡らせた伏線が最後になって効いてくるので、あんまり面白いからといって結論を急ぐあまり読み飛ばしたりなさいませんように。こういう年に十冊もないオモシロ本は、じっくり味わって読まなければ損ですから。
【下巻】
【この書評が収録されている書籍】
「芸術は、政治のため、教育のためにあるのではなく、まず何よりも楽しむために存在するのであり、楽しむことができなければ無にひとしい」
私もそう思う。もちろん、楽しみには様々な側面があるのだが、物語が起伏に富んでいて飽きさせず、人物造型に深みもあり、そのうえ文学上の仕掛けも凝らされている(が、それは決して仕掛けのための仕掛けであってはならず、物語の面白味を強化するための補佐的な役割を果たしていなければならない)ときたら、たいていの人にとって「楽しい芸術作品」ということになるのではないだろうか。
ロバート・ゴダードの歴史ミステリー『千尋の闇』はその条件をクリアしている一冊なんである。元歴史教師マーチンが、今世紀初頭に失脚したイギリスの青年政治家が遺した回顧録の謎を追うことで、記録文書にもとづく歴史もまた、それを記述する書き手の立場や心情によって、様々な解釈が施される虚構にすぎないということを看破。理由もなく最愛の婚約者に去られ、と同時に閣僚の座をも追われた前途有望な青年政治家の人生が明らかにされていくにつれて、マーチンの身辺もまた風雲急を告げ始めるという本書は、読み出したらやめられない、まさにページターナーな物語になっている。
過去と現代のロマンスや謎が、歴史的な文書を軸に呼応し合うという仕掛けは、冒頭に挙げたバイアットの『抱擁』や、ピーター・アクロイドの『チャタトン偽書』(文藝春秋)を思い起こさせるが、面白さでもその二冊に負けてはいない。最初は簡単に解けそうな謎の探究から始まるものの、その探究がまた新たな謎や殺人事件を呼び、登場人物の敵味方も錯綜する。真実は虚偽に、虚偽は真実に、語りは騙(かた)りへとめまぐるしく変化し続ける本書は、小説を読む喜びを十全に伝えてくれるという点で、自信をもって万人に勧められる「楽しい芸術作品」なんである。
ただし、様々に張り巡らせた伏線が最後になって効いてくるので、あんまり面白いからといって結論を急ぐあまり読み飛ばしたりなさいませんように。こういう年に十冊もないオモシロ本は、じっくり味わって読まなければ損ですから。
【下巻】
【この書評が収録されている書籍】
初出メディア

チッタ(終刊) 1997年2月号
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