自著解説

『楽只堂年録 第9』(八木書店)

  • 2021/04/27
楽只堂年録 第9 /
楽只堂年録 第9
  • 編集:宮川葉子(校訂)
  • 出版社:八木書店
  • 装丁:単行本(344ページ)
  • 発売日:2021-04-30
  • ISBN-10:4840652104
  • ISBN-13:978-4840652100
内容紹介:
徳川第5代将軍綱吉の側用人、柳沢吉保の公用日記の初の全文翻刻。
『楽只堂年録』完結をめぐって

はじめに

『楽只堂年録』は、柳沢吉保(1658~1714)の公用日記である。原本は、財団法人郡山城史跡・柳沢文庫保存会、略称「柳沢文庫」所蔵。楽只堂は吉保の号。彼は徳川5代将軍綱吉(生没1646~1709、在職1680~1709)の側用人として大老格に到った。

時代劇では「名悪役」として描かれることの多い吉保はいかなる政治家だったか、その実態に迫る。

 

源氏物語の研究から柳沢文庫へ

『源氏物語』の受容というテーマ下、中世の古典学者三条西実隆(1455~1537)を研究していた私は、実隆が一時、藤原定家筆天福本『伊勢物語』を所持していたのを知る。

同じ頃、吉保の側室正親町町子著『松陰日記』に、元禄15年(1702)4月6日の大火で罹災した柳沢家の家宝に、「逍遥院(実隆)の舟なかしたるとよみ給ひし定家卿のいせ物語」(『松陰日記』巻13山桜戸)があったとの記事に遭遇。約200年を隔てた2人の間に、天福本が介在していたことに興味をそそられた。実隆と吉保・町子の間に存する何かを求め、『松陰日記』原本閲覧に柳沢文庫を訪れ、『楽只堂年録』全229巻の存在を知る。

『楽只堂年録』は、先祖書(先代の略譜)に始まり吉保誕生と続き、綱吉薨去で隠退し、妻妾共々下屋敷六義園に移徙する宝永6年(1709)6月をもって終わる。吉保の人世の大半を伝える貴重な史料であった。

以前柳沢家には『静寿堂家譜』と呼ぶ公用日記があったが、天福本『伊勢物語』と同時に罹災し焼失。史料を博捜、再編し、元禄15年(1702)12月18日の吉保誕生日に新たになったのが『楽只堂年録』であった。再編に力を注いだのは、元禄9年(1696)吉保に召し抱えられた学者荻生徂徠。専門家による編纂とはいえ、史料焼失による物足りなさが残る点は返す返す残念である。


『楽只堂年録』とは


『楽只堂年録』には、漢文体と和文体がある。日本古来の男性日記のありようからは、漢文体が正統であろう。しかし、漢文体は1~10巻を欠き、全貌は和文体に依る外ない。その校訂翻刻が、史料纂集 古記録編『楽只堂年録』(八木書店)として公刊され、この度本文が完結したのである。                    

 
(1)出世の軌跡

柳沢家は、甲斐駒ヶ岳山麓を根城とした、武田信玄の家臣団武川十二騎の一。吉保は綱吉に仕える父安忠と、佐瀬津那子に誕生。延宝3年(1675)、18歳の7月12日、家督530石を相続した。綱吉の将軍就任により、23歳で小納戸役に。翌年には830石。綱吉の学問の弟子第1号になる。吉保の向学心が学問好きな綱吉の目にとまったのである。貞享元年(1684)27歳時には、200石加増し計1030石になり、翌年には小納戸上席、従5位下、出羽守と称するに到る。530石から始まったのが、10年で2倍の石高である。

そして元禄元年(1688)31歳の時、1万石加増して、1万2千30石に。1万石以上を大名と呼ぶから、末席ながら大名の列に連なり、側用人に就任した。同4年(1691)34歳の3月22日、自邸へ綱吉の初御成。以後58回に及ぶ。

同7年(1694)37歳時にも、1万石加増、7万2千30石となり、川越城を賜り、初めての城持大名になった。但し、吉保は定府(参勤交替せず江戸に常住)であったから、自身で任地に下ることはなかった。

40歳の同10年(1697)、2万石加増し、9万2千30石に。歴代帝陵の修垣を開始する。

その翌年、東叡山寛永寺根本中堂建立の総奉行を勤め、近衛少将に任官、老中上席(実質大老格)に到る。

同14年(1701)11月26日、松平の称号拝領、綱吉の諱「吉」字を賜り、保明を美濃守松平吉保、継嗣安貞は伊勢守松平吉里と名乗る。翌年3月には、綱吉生母桂昌院叙従一位。吉保の尽力の賜物であった。

吉保も46歳になった16年(1703)、所謂元禄地震が関東を襲う。老中上席吉保に寄せられた被害状況は『徳川実紀』の比ではない。東日本大震災以降、巨大地震の発生云々がかまびすしい昨今、関係各所で大いに分析して欲しいデーターである。

地震を一新すべく改元がなされ、宝永元年(1704)となる。60歳を眼前に継嗣不定を案じる綱吉に、吉保は甲府綱豊(家綱)を推した。同年12月、3万9千200石加増し、甲斐・駿河内で15万1千230石に到る。続いて翌年4月、上地(実り多き土地)ではないと駿河領を返上させた綱吉は、甲斐1国の国主とする。内高(実質上の石高)22万8千石。吉保は国持大名になったのである。綱吉はそれほどに継嗣決定を評価し喜んだのである。

天災は予見できない。元禄地震から4年しか経っていない宝永4年(1707)10月4日、宝永の大地震が勃発。続く11月23日、富士山が噴火。富士南東斜面に宝永山2,702メートルを形成した大噴火は、江戸にも火山灰を降り注いだ。

うち続く天災処理に疲れ果てたように、宝永6年(1709)1月10日、疱瘡に罹患した綱吉は、呆気なく薨去。64歳。12歳年少の吉保52歳。時を同じくして、疱瘡に感染していた綱吉室鷹司信子59歳は、2月9日薨去。綱吉薨去の一箇月後にあたる。急転直下の中、事後処理を完璧に済ませた吉保は、同年6月3日、隠居。家督は継嗣吉里が相続した。

 

(2)家族

正室は同族の曾雌定子。吉保19歳に17歳で嫁ぐが、子供に恵まれず側室が手配された。吉保は6人の側室(飯塚染子・正親町町子・横山繁子・片山梅子・上月柳子・祝園閃子(勢世子))を持つが、特記されるのは染子と町子。染子は吉保継嗣吉里の生母。町子は正親町公通と大奥総取締右衛門左局の娘で、吉保を堂上方の文芸世界へつなぎ、2男子(経隆・時睦)を産み、『松陰日記』を残す。詳細は省くが町子は間違いなく三条西実隆の子孫であった。

実子の他に養女3人がいる。うち土佐子と永子は、吉保の片腕として綱吉臨終の折も控えていた、黒田直重と松平輝貞のそれぞれ室であった。

 

(3)学芸

吉保が詠歌に志した時期は不明ながら、専門的に歌学に接するのは、北村季吟が元禄2年(1689)に幕府歌学方に採用された直後頃と思われる。『静寿堂家譜』焼失で正確には辿れないが、元禄13年(1700)8月27日、季吟より古今伝受する。その伝受史料が柳沢文庫に残されている。これで歌人として一人前になったのである。

以後、正親町公通・町子父子の仲介で、霊元上皇の添削を吉保・吉里揃って承けるようになる。また霊元上皇周辺の堂上歌人との交流、殊に中院通茂・中院通躬・野宮定基父子とのそれは深まり、定基(通茂息、野宮の養子になる)の娘幾子は吉保の養女となる。

その一方で、吉保は家庭内での和歌会を催し、婦女子に和歌上達の機会を与えている。町子は勿論、正室定子、吉里生母染子、養女土佐子などはその家集を残すほどであった。

学問では、綱吉の第1番弟子になって以来、江戸城での漢籍講釈には積極的に関わる。多くの学者抱え、彼らを講釈の場に臨ませ、綱吉御成時には漢籍のみならず、『源氏物語』『徒然草』『日本書紀』『新古今和歌集』などの講釈も行わせた。後に名を残した学者達 には、前述の荻生徂徠を初め、服部南郭・細井広沢・柏木全故(素龍)等があった。

 

(4)業績

吉保の業績として特筆すべきは、三冨開発と帝王陵修垣であろう。前者は、元禄7年(1694)に川越城主となって以降になされた新田開発。帝陵修垣は、同10年開始。全国に点在する天皇陵が荒れ放題であるのを愁えた吉保が綱吉に進言、逐条調査させ所在を明確にし、玉垣を施させた事業である。吉保の祖先を敬う生き方の現れでもあった。

 

(5)信仰

若い頃、この世には人力の及ばない何かがあると悩んだ吉保は、それこそが信仰心の原点だと教えられて以来、仏教に帰依する。殊に黄檗山万福寺の中国僧、悦峰和尚と親しく交流。宝永6年(1709)10月10日の剃髪は、悦峰を導師になされた。現在も奈良県大和郡山市の柳澤家菩提寺永慶寺(永慶は吉保の道号)は、黄檗宗寺院である。

さらに吉保には『勅賜護法常応録』の著作がある。霊元上皇に「護法常応録」の書名を賜った名誉ある参禅録。これには「故紙録」と名付けられた、側室染子の参禅録が附録として備わり、誕生した4人の子のうち3人が早世、吉里1人が生き残った悲しみから立ち直るための仏道入信であったと伝える。

一方で、後西天皇皇子で、三管領(比叡山・東叡山・日光山三山の長の意)の宮と呼ばれた公弁法親王とも親しかった。宮は寛永寺常住であり、幕府菩提所でもあるそこは、綱吉

が定期的に参詣、吉保が供奉していたからである。法親王は吉保邸にも、下屋敷六義園や真土山(現在の浅草聖天社)も訪問、吉保一家と親しく交流した。公的には、寛永寺根本中堂建立にあたり差配奉行を勤め、従四位下近衛少将に叙任される名誉にも与った。



(6)六義園

元禄8年(1695)4月、駒込に下屋敷地を拝領。前田綱紀の上地(幕府没収地)であった。同15年(1702)までの数年をかけ、吉保は和歌に因む庭園を作庭する。それは和歌の浦を写しとり、和歌の神たる玉津嶋社を勧請したものであった。そして「詩経」(中国最古の詩集)にいう漢詩の六種の分類により六義園と命名した。

園内には88箇所の名所を自ら定める。それを描かせた六義園絵巻を霊元上皇に献上。上皇は12境8景を勅撰した。かくて六義園は勅撰名所を持つ庭ともなるのである。

六義園に関しては、その後の庭園増大や新設など、語ることは多いが、『楽只堂年録』第108巻、元禄15年10月21日に記録される「六義園記」こそが、最も初期の六義園の姿を伝えるものであることを忘れてはならない。

当園に足を運んだ人物は、綱吉生母桂昌院、公弁法親王、綱吉女の鶴姫と養女八重姫、黄檗山悦峰和尚などがあった。迎賓のために凝らした吉保の工夫など、当時の文化の有りようを知る好史料である。ただし理由は未詳ながら、吉保邸に58回の御成を繰り返した綱吉の来園はない。

吉保は隠退後、ここを終の棲家とした。町子筆の『松陰日記』の末巻「月花」は、世間を逃れた吉保が、気ままに六義園の四季を楽しむ姿が描かれる。最期も当園であった。



(7)屋敷

吉保級の大名になると、上屋敷・中屋敷・下屋敷を拝領する。吉保の上屋敷は、神田橋と常盤橋一帯、現在の大手町1丁目あたりで、江戸城本丸から目と鼻の先に位置する。そこには綱吉の御成御殿や成長した子息達、女婿達の家屋群、何百人と抱えていた家臣達の住居(今でいう官舎)などが軒を並べ、合わせて数万坪に及んでいた。

総じて中屋敷と下屋敷の区別は明確ではない。上屋敷以外は一括され、所在地を被せ「萱町屋敷」とか別墅(別荘)などと呼ばれる。これらは柳沢家の場合、上屋敷火災の際の避難場所になったり、吉保生母の住居となったりした(霊岸島屋敷や矢の蔵屋敷)。勿論本来の別荘(別邸)として大いに活用もされた。六義園や萱町屋敷(真土山)がそれである。

晩年には芝屋敷も拝領。これは現在の旧芝離宮恩賜庭園そのものと思われるが、今は触れない。また京都荒神口にも屋敷を拝領している。さらに小菅には、抱え地(農民から買い取り所有した土地)10万坪を入手。ここは現在の東京拘置所となっている場所と思われる。

以上は江戸市中に限った屋敷。晩年、吉保は甲斐国主であったから、甲斐15万1千230石に相応しい甲府屋敷などを含めると、膨大な地主・家主であったのである。

 

まとめにかえて


吉保は定府であったのは述べた。常に綱吉の側にあって滅私奉公に励んだ。そのありようは、大老格の為政者というより、綱吉個人の補佐役であったというほうが相応しい。

そうした意味で『楽只堂年録』は、綱吉との個人的な結びつきの記録でもある。それ故、綱吉の家族、例えば生母桂昌院、御台所浄光院、側室瑞春院、女鶴姫・養女八重姫などへの細かい配慮も記録されているのである。

時として吉保は綱吉の佞臣であると非難されてきた。確かに吉保の目は綱吉にのみ向っていた。しかし、おのれの利益を優先する策士とは異なり、出世などを目的にしてはいない。天性からの滅私奉公で、結果の出世であった。

吉保の職名は終生側用人。実質的に大老格に到るが、あくまでも正式には側用人であった。側用人とは、「将軍に近く仕え、将軍の命令を老中に伝達する職。その格式は老中に準ずるが、職務上の権力は老中をしのいだ」(『日本国語大辞典』小学館)という。

権力が偉大であったから、吉保は老中を名乗らなかったのであろうか。そこにあったのは、側用人の定儀―それが正統に認知されていたとして―へのこだわりではなかったか。

さかのぼれば、吉保父安忠は、徳川家光の命で、3歳の綱吉に守り役よろしく仕え、吉保は7歳で綱吉に初拝謁して以来、綱吉薨去まで仕え続けた。綱吉に片時も離れず近侍すること、それが吉保にとって側用人に対する認識であり定儀であったのだ。

その認識・定儀のもと、綱吉への滅私奉公だけを目指す、それが柳澤家の信条であった。仕えた綱吉がたまたま将軍職に就いただけで、側用人を目指して綱吉に仕えたのではない。そこに権威欲など介在しないのである。

勿論、吉保の天分と運も作用したのは確かであるが、主君の希望を先取りしての、先手先手の完璧な補佐に支えられ、綱吉は文治主義政策を貫き、学者を育て、太平の世を創出して行くのである。結果綱吉は恩顧をかける。吉保はさらに報いる。ここに530石から出発した下級武士の子息の、輝かしい出世が現出したのである。

成功者への嫉妬はお定まり。講談・歌舞伎などは、面白おかしく吉保を悪者に仕立てた。

もっともそこにはそれなりの理屈がある。「生類憐愍令」の行き過ぎを諫めなかったこと、赤穂藩主浅野長矩の吉良義央傷害事件裁定の不公平さなど。

「生類」の方は、綱吉薨去を待ちかね解除されたが失政である。綱吉の頑なさに負け吉保が諫めきれず、責任を一身に引き受けた観があるが、綱吉を守り抜くことが信条の吉保にとって、これもご奉公であったのだ。

赤穂の件は最近見直されつつあるように、時と場所をわきまえず刃傷に及んだ浅野長矩に、即日切腹が下命されたところに落ち度はない。ただ庶民は、討ち入りに到らざるを得なかった浪士達への「何か」が欲しいのである。それが反感となり、吉保の実像を歪め、悪者に仕立て続けて来た。嫉妬の持つ恐ろしいエネルギーと言わざるを得ない。

『楽只堂年録』は、出来事全てを淡々と記録する。個人的感想・感情は1行もない。それなのに、至る所から、綱吉を守り固める家筋という自負に立ち、誠実に綱吉に向き合った吉保が浮かび上がるのである。その点を見逃さずに扱って欲しい史料である。

綱吉の終焉は麻疹罹患の中であった。吉保は薬湯を含ませた和紙を綱吉の口元に運ぶが効なく臨終。49日間、綱吉の仮廟所に日参した吉保は、きっぱりと政界を去るのである。


[書き手]宮川葉子
元淑徳大学教授
青山学院大学大学院博士課程単位取得
青山学院大学博士(文学)
主著:『三条西実隆と古典学』(1995年、風間書房)(第3回関根賞受賞)、『源氏物語の文化史的研究』(1997年、風間書房)、『三条西実隆と古典学(改訂新版)』(1999年、風間書房)、『柳沢家の古典学(上)―『松陰日記』―』(2007年、新典社)、『源氏物語受容の諸相』(2011年、青簡舎)、『柳澤家の古典学(下)―文芸の諸相と環境―』(2012年、青簡舎)他。
楽只堂年録 第9 /
楽只堂年録 第9
  • 編集:宮川葉子(校訂)
  • 出版社:八木書店
  • 装丁:単行本(344ページ)
  • 発売日:2021-04-30
  • ISBN-10:4840652104
  • ISBN-13:978-4840652100
内容紹介:
徳川第5代将軍綱吉の側用人、柳沢吉保の公用日記の初の全文翻刻。

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ALL REVIEWS 2021年4月27日

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