首都圏の地政学はこの一冊で!
はじめに
日本の歴史の中心には、有史以来現代に到るまで、1本の道が走っている。「国道16号線」だ。
東京の中心部からほぼ30キロ外側、東京湾をふちどるようにぐるりと回る、実延長326・2キロの環状道路である(法律上の起点・終点は横浜市西区)。
三浦半島の付け根、神奈川県横須賀市走水(はしりみず)から横浜まで東京湾の海辺を走ったのち、内陸部に向かう。東京都の町田、八王子、福生(ふっさ)を抜けて、埼玉県の入間(いるま)、狭山、川越、さいたま、春日部(かすかべ)を過ぎ、千葉県の野田、柏、千葉、市原から再び東京湾岸に出る。木更津(きさらづ)を越えて富津(ふっつ)の岬に到着すれば、海を挟んでスタート地点の横須賀の街が見える。
平日は大型トラックや営業車両が行き交い、休日はレジャーや買い物に向かう自家用車で渋滞する。周囲には都心へ通う人たちが暮らすベッドタウンが広がる。ショッピングモールと田んぼとラーメンチェーンと雑木林が同居する国道16号線は、さまざまなメディアに「日本の郊外」の典型として取り上げられてきた。
バブル景気以降の郊外消費の最前線としてテレビの経済番組に取り上げられるかと思えば、生糸(きいと)産業と米軍基地と日本のサブカルチャーのクロスロードとして社会学者が詳細に分析を行う。暴走族からマイルドヤンキーまで「郊外若者文化」の見本市として映画のネタにもなったかと思えば、少子高齢化で衰退する日本の現場の象徴としてドキュメンタリーの主人公にもなる。
道路整備そのものが始まったのは明治維新以降だ。現在のルートが「国道16号」として指定されたのは1962年5月1日、施行したのは翌1963年4月1日、東京オリンピックの前年である。生まれてから60年もたっていない新しい道だ。
そんな新しい道であるが、現在国道16号線が通る〝16号線エリア〟(と本書では呼ぶことにする)は、古代から現代に至るまで日本の文明と文化、政治と経済のかたちを規定してきた――。これが、本書の仮説である。
日本の歴史を眺めれば、はるかに有名な道路がいくつもある。たとえば七道(しちどう)だ。
701年の大宝律令制定の時代に五畿七道(ごきしちどう)という行政区分ができた。五畿は大和、山城、摂津、河内、和泉、七道は東海道(三重から茨城までの太平洋沿い)、東山道(滋賀から青森までの内陸部沿い)、北陸道(福井から新潟までの日本海沿い)、山陽道(兵庫から山口までの瀬戸内海沿い)、山陰道(京都から島根までの日本海沿い)、南海道(三重、和歌山、淡路島と四国)、西海道(九州)である。
政治の中心である五畿=畿内から地方に伸びる七道には幹線道路が敷かれた。誰もが知る東海道もそのひとつだ。この道がたどるルートは、国道1号線や東名高速道路に進化して、日本の動脈であり続けている。
一方の16号線は何の歴史も背負っていないかに見える。そんな道がなぜ日本の文明や文化の誕生に重要な役割を果たしてきた、といえるのか。
実は、16号線の記された地図をさまざまな時代の歴史と重ね合わせてみると、興味深い事実が浮かび上がる。この道沿いには、歴史上きわめて重要な、各時代の人々の営みの痕跡がはっきりと残されているのだ。
数万年前の旧石器時代、16号線エリアの神奈川県橋本は、日本各地を結んだ黒曜石などの交易の要衝であったことがわかっている。数千年前の縄文時代の東京湾岸16号線エリアは日本最大の貝塚集積地帯だった。古墳時代には数多くの古墳が築造され、関東の有力な政治勢力が活動していた。飛鳥時代から奈良時代にかけて、上総国府が16号線エリアの千葉県市原に設けられた。
平安時代、武士勢力が台頭したのも16号線エリアだ。伊豆蛭ヶ小島(ひるがこじま)を脱した源頼朝が鎌倉幕府を開くにあたって走り回ったルートも、室町時代に戦国の世に連なる数々の大名が覇権を争って築いた城があるのも、戦国時代に京都から江戸へと政権を呼び寄せる下地となった土地も、徳川家康の命で江戸幕府が日本史上最大の河川改修事業を行った流域も、16号線エリアだ。
江戸時代末期から明治維新にかけて、16号線エリアは歴史の表舞台に躍り出る。殖産(しょくさん)興業と富国強兵を担うことになるのだ。
日本の開国を促したペリーの黒船が訪れたのは、横須賀・浦賀であり、開港したのは横浜だ。どちらも16号線エリアの街である。横浜港から世界に出荷されて日本の近代を支える最大の外貨獲得手段となったのは生糸だ。各地で生産された生糸は八王子に集められ、横浜に運ばれた。八王子と横浜を結ぶ街道は、のちに日本のシルクロードと呼ばれるようになり、現在の16号線の一部となる。
生糸で稼いだ外貨で、明治政府は富国強兵に邁進した。横須賀には軍港が開かれ、浦賀で軍艦が建造された。航空関連施設の多くが、16号線エリアとその周辺につくられた。所沢には日本最初の飛行場ができ、相模原や立川、福生、入間、柏、習志野には日本軍の航空基地が整備された。軍用を兼ねて地域を結ぶ道路の整備が進んだが、それが現在の16号線の原型となる。
第二次世界大戦で日本は敗れ、敗戦国となった。旧日本軍の施設は連合軍最高司令官総司令部(進駐軍、GHQ)に接収され、その多くは米軍基地に変わった。16号線エリアは、戦後の日米安全保障の縮図となる一方、米国文化の媒介地となった。日本の芸能界と音楽産業が花開き、映画や小説や漫画に影響を及ぼし、サブカルチャーや社会風俗の進化を促した。
戦後の高度成長期における首都圏への人口集中とともに、16号線エリアではニュータウンの開発が進み、1100万人規模の巨大な市場となった。モータリゼーションが進み、郊外消費の前線となり、アミューズメントパークがいくつもできた。2020年代の今も、16号線は日本の消費文化の最前線を走る道のひとつである。
16号線という道路が生まれるはるか前の旧石器時代から現代に至るまで、この道が通っている地域は日本の文明と文化を動かし続けてきた。いったいどういうことだろうか?
謎を解くカギは「道」そのものではなく、「道」が走る「地形」のほうにある。
16号線が貫いている地域の土地の形は、人々がわざわざ住み着きたくなる、理想の「地理的な条件」を備えていた。結果として、この地域では、日本の文明や文化のかたちを規定していく営みが積み重なり、その流れが1本の道になった。そう考えられないだろうか。
地理的な条件がそれぞれの地域の人類の文化と文明のあり方を決めるという視座は、目新しいものではない。生物地理学者で進化生物学者のジャレド・ダイアモンドが『銃・病原菌・鉄』(草思社、2000)ではっきりと示している。
ダイアモンドによれば、人々が暮らしている土地の地理的な条件、「地形」や「気候」や「自然環境」の違いが、それぞれの地域の文明のかたちを規定する大きな要因となる、という。
中東や地中海沿岸、インドや中国、ヨーロッパがあるユーラシア大陸で巨大文明が発達したのは、穀物となる小麦や米の原種、家畜となる羊や牛の原種が生息しており、巨大河川のつくった扇状地(せんじょうち)が、品種改良した小麦や米を育てるのにうってつけなうえ、東西に長い平坦な土地が交易に向いていたからだ。これらの地域では大規模農業が発達し、人口が急速に増え、国家が成立した。つまり、巨大文明の発達に適した地理的条件を「たまたま」備えていたわけである。
一方、人類発祥の地であるサハラ砂漠以南のアフリカ大陸や、かつて欧州より先進的な航海技術を持っていた古代人が渡ったニューギニアやオーストラリアでは、巨大文明が発達しなかった。地理的条件が、大型農業を発達させるのに向いていなかったからだ。砂漠あるいは熱帯雨林では、小麦や米などの穀類を品種改良し、栽培するのは困難だった。人々は、熱帯雨林や砂漠に向いた暮らし方を発達させた。それが、「たまたま」巨大文明の形をとらなかったわけだ。
日本列島は、4つのプレートがぶつかってできた地球のシワが寄せ集まった場所だ。火山が多く地震も頻繁に起きる。どう考えてもあまり住み心地のよくなさそうな島々に、約3万8000年前、アフリカから人類がたどり着いた。そして日本という国が誕生し、今まで続いている。
ダイアモンドの説に基づくならば、この日本の文明と文化を形成する前提となった地理的な条件があるはずだ。その地理的な条件とはどんなものなのか。そして、その地理的な条件を備えた典型的な地域は日本のどこにあるのか。
初期の文明が築かれた畿内か。あるいは九州か。それとも東北か。江戸時代以来中心であり続ける東京都心か。いや、違う。「国道16号線」こそが、日本の文明の前提となった地理的な条件を備えた地域なのだ。
暴論に聞こえるかもしれない。でも、最後までお読みいただければ、納得していただけるはずである。いっしょに16号線への旅に出かけて、この道の謎を解いていこうではないか。