熱湯風呂もユーミンも、日常言語の謎
川添愛の本はなぜ面白いのだろうか? 第一に、多くの人が(ここで「人は皆」などと過剰な一般化をしてはいけない)しちめんどうくさい学問として敬遠しがちな言語学だが、じつは身近の不思議を解き明かし、生きるのを少し楽しくしてくれる。第二に、実用的でない抽象的なものと思われがちな言語学の知識が、実践に応用できることを教えてくれる。第三に、著者は言語学者なのに(だからこそ?)、変な言葉や表現を見つけることを楽しんでいる。第四に、著者は言語学よりもプロレスのほうが好きではないかと思わせるほどで、プロレスを語る熱い文章が生き生きとして弾けている。おまけに、本書を彩る、コジマコウヨウによる登場人物たちの似顔絵が秀逸。本書は、言語学エッセイ集である。評者自身、千野栄一、鈴木孝夫、田中克彦といった名だたる言語学者の著作を愛読してきたが、これほど自由で楽しい文章を書く言語学者は初めてだ。川添氏は理論言語学を専攻し、その後人工知能(AI)研究にも携わったあと、現在は作家として活躍をしている。人工知能と言語をテーマにしたファンタジーを次々に書き、理論を物語の世界で華麗に展開してきたが、今回は初めてのエッセイ集で、著者の人柄や好みを大胆に語っていて魅力的だ。
本書の面白さの第一の点についていえば、プロレスラー、ラッシャー木村の「こんばんは事件」とか、ダチョウ倶楽部・上島竜兵が熱湯風呂の縁にまたがったとき発する「絶対に押すなよ」をAIは理解できるか、ユーミンの名曲「恋人がサンタクロース」はなぜ「恋人はサンタクロース」ではないのか、といった問題が次々に取り上げられていく、なるほど、私たちの生活はこれほど言語に関する謎に取り囲まれているのか!
それは単に面白いだけではなく、第二に、役に立つ。「熱湯風呂」の場合の「意味」と「意図」のずれ、ユーミンの曲に現れる「は」と「が」の使い分けという、日本語学最大の難問、言葉によって「一般化」しすぎることや誘導尋問で使われる「前提」の危険性など――全部、私たちの日常の言語生活に直結する。
とはいえ、第三に著者は、世に流通している宣伝文句や「ニセ英語」から変なものをせっせと探し出しては面白がり、言語学者が「正しい言葉」の守護者であるという誤解を吹き飛ばす。川添氏自身、自分がこの本で使っている言葉は「五年ぐらい着古したパジャマ兼部屋着のスウェット上下」といった感じなのだ、と言っている。そして第四に、人目をはばかることのないプロレス愛。本書全体がプロレスの話題に満ちていて、その蘊蓄には正直なところついていけない。第一三章などは、言語学はほぼそっちのけで、藤波辰爾という不世出のレスラーへのオマージュで埋め尽くされている。
ところで、本書のタイトルにある「バーリ・トゥード」とは一体何か? 格闘技ファン以外は知らない人が多いのではないだろうか。私ももちろん知らなかった。こういうタイトルの付け方、言語学的には、発話の際に相手の知識にどのくらい配慮すべきかという理論的な問題につながり、本書ではようやく第三章で説明されるのだが、この書評ではやはり説明しないでおこう。