尋常ならざる足跡
このたび刊行した「『キリシタン世紀の日本』の原著はCharles Ralph Boxer,The Christian Century in Japan 1549-1650,Berkeley(1951) second printing,corrected,1967である。初版から70年経過した。この間、本書邦訳の噂を幾度か耳にした。原著を読んだ者の間でその重要性の認識が共有されても、結局翻訳は本訳書まで実現しなかった。私の学生時代を振り返ると、ボクサー(1904-2000年)は現に学界を牽引する偉大な歴史家であった。新著が出版されれば直ぐに求め、その機会があれば講莚に列なった。真先に学び、咀嚼吸収すべき学者だと思っていた。没後彼の伝記がいくつか作られた。中でもDauril Alden,Charles R.Boxer,An Uncommon Life,Soldier,Historian,Teacher, Collector,Traveller,2001は600頁を超える大冊である。著者オールデンは大航海時代のイエズス会布教に関する大部な研究書があり、ボクサー伝を作成するのに相応しい学者であろうが、彼はボクサーの生涯を語るに、軍人・歴史家・教師・蒐集家・旅行家としての足跡を論じている。その人物の大きさが浮き彫りになるが、私はさらにそこに「教養人」を追加したい。まことに「尋常ならざるUncommon」足跡を印した人物である。
ボクサーの業績
ボクサーは英国の士官学校出身で、陸軍軍人を経て大学の教師になった異色の歴史学者である。1930年、彼が26歳頃であるが語学将校として日本に赴任した。1935年に日本語による情報将校として香港に駐在し、1942年香港が日本軍の占領下に入ったため捕虜となり1945年終戦、46年まで極東委員会の一員として日本に滞在した。同年イギリスに帰国し、翌1947年ロンドン大学キングス・カレッジの教授に就任、1967年まで勤めた。その後インディアナ大学を経て、イェール大学教授になり、1972年68歳でそこを定年退職した。つまりキングス・カレッジ教授になるまでの軍務に就いている期間にすでに、大きな研究実績を挙げていたわけである。20世紀最大の個人文庫と謳われた彼の蔵書は、インディアナ大学のリリー図書館に収められた。70年間で335篇に上る著書・論文
彼は1926年に最初の論文を発表し、最後の論文は1996年であった。この70年間に発表した著作は全部で335篇に上る。その多くは、大航海時代におけるアフリカ・インディア・極東からさらにブラジルに及ぶ広域なポルトガル領・ポルトガル圏に関する歴史研究、ポルトガルと共に同時代を牽引したオランダ人の活動についての研究である。論文を別にして著書だけに限ると、日本に関する著作は、本原著およびThe Great Ship from Amacon,Annals of Macao and Old Japan Trade 1555-1640,Lisbon,1959の2冊が主なものである。その内本書は初版が1951年であるから、キングス・カレッジの教授になって4年後、47歳頃の著作であった。その8年後に出版された上記『マカオからの大船』は、マカオ・長崎間の通交と貿易に関する編年的記述に的を絞っている。本書同様、是非とも邦訳すべき研究書である。諸外国語の原史料を読解し、世界史上にキリシタンを位置づける
それに対し『キリシタン世紀の日本』は、上記の如く広域を研究対象とする著者が、その広い視圏からキリシタン史を通史的に記述したものである。しかもそれは、ポルトガル・スペイン・イタリア・フランス・オランダ、そして日本という各国語にわたるまことに膨大な量の原史料と研究書の精査を踏まえている。キリシタン布教は大航海時代の所産であることが、本書によって明示された。世界史の中に当該時代の日本を据えて俯瞰する、世界史上にキリシタンを位置づける――これがボクサーによって初めてなされたと言ってよいであろう。なお彼の業績の中には、ポルトガルやオランダの重要な史料本文の翻訳と研究、および彼が行った数多くの講演の記録を出版した著書も少なくない。キリスト教信仰にとらわれない歴史学
19世紀末から21世紀初にかけて生きた偉大なキリシタン史研究者を挙げるなら、シュルハンマー、ヴィッキ、シュッテ、ロペス・ガイ、アルバレス、そしてボクサーの6人であろうか。最初の4人はイエズス会士、5人目のアルバレスはイエズス会士ではないが、熱心なスペイン人カトリックである。こう見てくると、カトリックではないボクサーの著作の持つもう一つの重要な意義が鮮明になる。歴史学の方法・手順を踏んで研究し論述する以上、個人の信仰事情など無関係のはずであるが、そうは言えないところにカトリックの歴史であるキリシタン史の特殊事情がある。私が若い頃本書に傾倒し邦訳を志すまでになったのは、彼の学識の深さは勿論であるがもう一つ、研究対象を客体化する点でどうしても或る種疑問を拭えないカトリック系学者の著書・論文に対して、ボクサーの作品に見られる渇を癒すがごとき新鮮さに惹かれたからであった。[書き手]高瀬 弘一郎(たかせ こういちろう)
1936年、東京に生まれる。慶應義塾大学文学部卒業、慶應義塾大学大学院博士課程単位取得退学、慶應義塾大学文学部教授。現在、慶應義塾大学名誉教授。
〔主な著訳書〕
『キリシタン世紀の日本』(八木書店、2021年)
『キリシタン時代の研究』(岩波書店、1977年)
『イエズス会と日本』一・二〔二は岸野久との共訳〕(岩波書店、1981年・1988年)
『キリシタンの世紀』(岩波書店、1993年)
『キリシタン時代対外関係の研究』(吉川弘文館、1994年)
『キリシタン時代の文化と諸相』(八木書店、2001年)
『キリシタン時代の貿易と外交』(八木書店、2002年)
『モンスーン文書と日本―十七世紀ポルトガル公文書集―』(八木書店、2006年)
『大航海時代の日本―ポルトガル公文書に見る―』(八木書店、2011年)
『新訂増補キリシタン時代対外関係の研究』(八木書店、2017年)
『キリシタン時代のコレジオ』(八木書店、2017年)