解説

『20世紀物理学史【上巻】―理論・実験・社会―』(名古屋大学出版会)

  • 2021/10/05
20世紀物理学史【上巻】―理論・実験・社会― / ヘリガ・カーオ
20世紀物理学史【上巻】―理論・実験・社会―
  • 著者:ヘリガ・カーオ
  • 翻訳:岡本 拓司,有賀 暢迪,稲葉 肇,小長谷 大介,杉本 舞,山口 まり,金山 浩司,中尾 麻伊香
  • 監修:岡本 拓司
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(308ページ)
  • 発売日:2015-07-15
  • ISBN-10:4815808090
  • ISBN-13:978-4815808099
内容紹介:
栄光と失敗、論理と閃きのダイナミクスとしての「物理学の世紀」。量子力学と相対論という二大革命に始まり、社会と関わりつつビッグ・サイエンスに至るまで、華々しくも苦難に満ちた100年を一望し、確かな筆致で全領域をバランスよく記述した名著、待望の邦訳。上下全2巻。
毎年、ノーベル賞発表の前後には物理学の研究に注目が集まる一方で、その歴史が取り上げられることはそれほど多くない。量子力学と相対論、二つの革命から始まった「物理学の世紀」はどのような100年だったのだろうか。
この分野のスタンダードな著作として高い評価を得ているヘリガ・カーオ『20世紀物理学史』(上下全2巻、岡本拓司監訳、有賀暢迪・稲葉肇他訳、2015年)の邦訳刊行によせた監訳者・岡本拓司氏の緒言と物理学の歴史をひもとくための推薦図書10冊を、以下ウェブ初公開する。

『20世紀物理学史』刊行にあたって――「保守的な革命」の意義

それは取るに足りない歴史なのか?

『20世紀物理学史』の特に初めの部分には、該書で扱う物理学上の変革は、過去との連続性の強い保守的な性格のもので、概念上の変化は大きいものの、方法論には断絶はなく、アリストテレス自然学とニュートン力学の間に見られるような決定的な対立も存在しなかった旨の記述がある。別の言い方をすれば、16世紀半ばから17世紀末までに起きた変革は科学の誕生をもたらしたが、20世紀前半の変革は科学の内部での基礎理論の交代を生じさせたにとどまったということになる。

日本、或いは世界全体を見ても、いまのところ、科学の歴史について多くの人々が関心を持っているという状況にはない。それならば、まず広く知られる必要があるのは以後に引き継がれる科学が誕生したという事態(いわゆる科学革命)の詳細であって、20世紀前半の、量子論と相対論の登場に代表される変革を取り上げて細部を論ずる意味はこれに比べれば小さいのではないか――そのような疑問が浮かんでも不思議ではない。

科学そのものの意味すら変えた20世紀の「保守的な革命」

実際には、しかし、20世紀に「保守的な革命」が現実のものとなるまでは、その前の「科学革命」の意味も明確ではなかった。正確に言えば、「保守的な革命」の発生によって、「科学革命」の意味も、或いは科学そのものの意味も、決定的に変化することとなった。「保守的な革命」は、科学の意味をより高い精度で考えるために不可欠の材料を与えたとも言える。

具体的にはこうである。科学革命の成果として生まれた基礎理論はニュートン力学であった。この理論は地上の物体の運動も天体の運行も同じ一揃いの法則で記述し、その精度は実験や観測によって数字で確認できた。ニュートン力学の説得力は新たな学問の基準の登場と密接に結びついていたはずであったが、その圧倒的な説明力の高さのために、これが自然を記述する唯一の基礎理論であり、それが正しいのは、理論の内容そのものが自然の姿を忠実に反映しているためであるとも考えられるようになった。

ところが、20世紀に入ると、以後30年ほどの間に自然を記述する基礎理論は根本から書き換えられ、現在に至るまでこれに基づく研究の拡大が続いている。基礎理論の書き換えの規模は17世紀以降最大であったが、過程の詳細を見ると、実験・観測と理論の組合せから成る科学の方法そのものは変化せず、むしろこの方法に忠実に従うことによって、新たな道が開かれていったことが分かる。理論の内容は大きな変貌を遂げたが、それが正当であることは、方法や基準の連続性に支えられていた。

科学の「方法」と「理論」、その歴史の検討

とすれば、科学はその方法に要諦があり、理論の示す内容は、二次的な、変化しうるものと考えて差し支えない――と即断できるほど、しかし、事態は単純なものではない。「方法」の保守性は理論の内容のとらえ方に及んでいると言ってもよく、相対論も量子論も旧理論を極限として含むように作られている。エネルギー保存則のような根本則は保持され続けてもいる。20世紀前半のような革命は、いまのところ1度きり生じたのみであって、今後このような革命がおこるかどうかは不明である。過去の蓄積の上に立ちながら、人類はついに自然の全容を記述するための基礎としての究極の理論に到達したとも言えそうである。

一方で、理論の内容の変化に特に注目すれば、アリストテレスとニュートンの間の断絶も、ニュートンとアインシュタインの間のそれも、区別する必要はない。前者で生じた方法上の変革は、後者でも、たとえば同じ「質量」の語で示す内容が全く異なるといった具合に、生じているのかもしれない。それどころか、科学の歴史の中に現れる大小さまざまな理論の変化ごとに、学問の方法の変化が生じているのであって、個々の理論の優劣を決める通時的な基準など存在しないのかもしれない――。こうした相対主義的な科学論も、20世紀後半には、基礎理論の交代という事態の解釈の一方の極として登場するようになった。

科学が何であるかを考える上で、その歴史の検討が基本的な役割を担っていることが理解されよう。「保守的な革命」は実際に生じたが、それは(まだ)1度きりの出来事である。このことの可能性と限界を正確に理解しようとする方々に、『20世紀物理学史』と、以下で取り上げたような良質の物理学史書を繙くことをお勧めする所以である。

必読の10冊

1 旅人 ある物理学者の回想
湯川秀樹 角川ソフィア文庫 2011年
『旅人』の書名で知られる湯川秀樹の自伝。朝日新聞に連載されたものが1冊にまとめられた。朝日新聞の記者、沢野久雄が書いたともいわれる。大正末から昭和初期にかけての高等学校や大学での生活、アインシュタイン来日、量子力学への憧れなどが描かれている。

2 物理屋になりたかったんだよ
小柴昌俊 朝日新聞社 2002年
日本の物理学といっても素粒子理論だけではなく、実験、それも注目の集まりやすい加速器ではなく宇宙線分野も優勢であることを教える書。読みやすく書かれているが、巨大観測装置の建設や運営の実態、物理学の戦後史を知るためにも有益である。

3 科学の社会史 上・下
廣重徹 岩波現代文庫 2012年(上)・2013年(下)
狭義の物理学史書ではないが、物理学を含む科学を国家が取り込んでいく19世紀半ば以降の世界的な動向(広重は「科学の体制化」と呼んだ)の中で、日本もその流れに後れを取っていたわけではないことを示した。広重の意図は体制化批判であろうが、歴史家としては体制化が必然であることを描いている。

4 アインシュタイン・ショック〈1〉大正日本を揺がせた四十三日間
アインシュタイン・ショック〈2〉日本の文化と思想への衝撃
金子務 岩波現代文庫 2005年
1922年11月から12月にかけてのアインシュタイン訪日の顛末や背景、影響などを、時代状況の濃密な描写とともに記した書。第一次大戦とロシア革命の直後の日本の世相や思想界の動向を、相対性理論を探針として記述した書としても読める。

5 こうして始まった20世紀の物理学
西尾成子 裳華房 1997年
薄くて小さな本ではあるが、通読して、20世紀初頭にあった原子物理学に関わる諸発見について概観を得るのに適切である。記述の対象から言って当然ではあるが、実験の細部や機器についても解説してある点にも特徴がある。

6 長岡半太郎伝
板倉聖宣・木村東作・八木江里 朝日新聞社 1973年
科学者を主人公にして大河ドラマが作られるのであれば、第1作は、明治維新前に生まれ、戦前の日本の物理学を牽引し続け、1950年に亡くなった長岡半太郎でお願いしたい。40年以上前に書かれた本であるが、物理学史家による伝記の代表的な作品としても見本とするに足る。

7 加速器の歴史
M.S.リヴィングストン みすず書房 1972年
日本語で読めるもので実験を取り上げた物理学書は少ない。この本は、米国の高エネルギー物理学の開拓者の一人が、コッククロフト・ウォルトンからシンクロトロンに至るまでの加速器の歴史を、自身の経験とともに振り返ったもの。

8 量子力学史1・2
マックス・ヤンマー 東京図書 1974年
日本語で読める量子力学史書として、40年以上にわたって読み継がれてきた(はず)。著者は『力の概念』『質量の概念』『空間の概念』で知られる物理学史家で、本書も理論の展開を詳細に追った点に特徴がある。同著者の『量子力学の哲学』もこの理論に関わる哲学的な議論の概観を得るにはよい。

9 素粒子論の開拓
高林武彦 みすず書房 1987年
自身も理論物理学者であった著者による、湯川秀樹・朝永振一郎・坂田昌一の3人の物理学者の研究に即した論文と、素粒子論のいくつかの側面の歴史的展開に関する論文を集めたもの。著者の経験に基づく逸話も紹介されており、特に日本の素粒子論の1980年までの展開を知るのによい。

10 量子力学史
天野清 中央公論新社 1989年
1945年に戦災死した天野清の遺稿。天野からすれば量子力学の誕生はほとんど同時代史であったが、その歴史的意義に気づいて詳細を追おうと試みている。戦前期日本の知的水準を測る標としても、戦前も戦後も影響の強かったマルクス主義とは異なる観点に立つ作品としても、注目される。

※初出:『20世紀物理学史』刊行記念 「物理学の世紀」フェア配布冊子(発行:名古屋大学出版会、2015年7月)

[書き手]岡本拓司(東京大学大学院総合文化研究科)
20世紀物理学史【上巻】―理論・実験・社会― / ヘリガ・カーオ
20世紀物理学史【上巻】―理論・実験・社会―
  • 著者:ヘリガ・カーオ
  • 翻訳:岡本 拓司,有賀 暢迪,稲葉 肇,小長谷 大介,杉本 舞,山口 まり,金山 浩司,中尾 麻伊香
  • 監修:岡本 拓司
  • 出版社:名古屋大学出版会
  • 装丁:単行本(308ページ)
  • 発売日:2015-07-15
  • ISBN-10:4815808090
  • ISBN-13:978-4815808099
内容紹介:
栄光と失敗、論理と閃きのダイナミクスとしての「物理学の世紀」。量子力学と相対論という二大革命に始まり、社会と関わりつつビッグ・サイエンスに至るまで、華々しくも苦難に満ちた100年を一望し、確かな筆致で全領域をバランスよく記述した名著、待望の邦訳。上下全2巻。

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