解説

『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』(岩波書店)

  • 2021/08/13
日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」 / 松本 健一
日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」
  • 著者:松本 健一
  • 出版社:岩波書店
  • 装丁:文庫(399ページ)
  • 発売日:2006-06-16
  • ISBN-10:4006031343
  • ISBN-13:978-4006031343
内容紹介:
日本はなぜ無謀な戦争に突入し敗れたのか―ヨーロッパ諸国から同時期に文明国と認められた日米宿命の対立の根底には、中国問題があった。その端緒「対支二十一ヵ条の要求」から敗戦に至る軍人、政治家、思想家、ジャーナリストたちの言動を検討し、誤りを摘出する。多彩な登場人物が織り成す壮大な思想のドラマは論争を呼ぶ。

悔恨共同体と無念共同体

『日本の失敗』を読む


わたしは三歳(一九四五年)から十八歳(一九六〇年)まで、新潟県佐渡郡両津町(一九五四年から両津市、現在は佐渡市両津)で育った。両津町は本書(『日本の失敗――「第二の開国」と「大東亜戦争」』岩波現代文庫、二〇〇六年)の著者松本健一氏の処女作(『若き北一輝ーー恋と詩歌と革命と』現代評論社、一九七一年)の主人公北一輝が生まれ、育った町である。

わたしは戦前生まれ(一九四二年)とはいえ、ものごころがついたのは、敗戦直後だった。そんな時代だったから、新制大学教育学部を卒業して、この町にやってきたインテリ教師などは、北一輝は戦争を煽った極悪犯罪人である、と激しく批判していた。ところが、多くの町民の間では犯罪人どころか、町が生んだ英雄でありつづけていた。その証拠になるのは、一輝の弟で二歳下の北昤吉の戦後における地元人気である。

昤吉は、早稲田大学を卒業し、『日本新聞』を編集、のちに祖国同志会を結成し、機関誌『祖国』の編集などに携わった。一九三六年、地元新潟県第一区から衆議院議員に初当選したが、翼賛政治に反対し、一九四二年の翼賛選挙には非推薦で当選した。尾崎行雄(一八五八~一九五四)や斎藤隆夫らとならんで気骨の政治家の一人だった。戦後、自由党結成の創立準備委員長をつとめた。昤吉は、戦後、追放解除のあと『宴のあと』(三島由紀夫)のモデルとなった同じく佐渡島出身の有田八郎(一八八四~一九六五)とともに衆議院議員選挙(新潟県第一区)に出馬していたが、両津町は北昤吉の大票田だった。社会党系から出馬した有田よりも鳩山一郎(一八八三~一九五九)や三木武吉(一八八四~一九五六)らと行動をともにしていた右寄り保守の昤吉は圧倒的な人気を集めていた。戦前から代議士だったとはいえ、兄北一輝の威光効果(戦後にいたっても!)というべきものであった。

そんな地元での北兄弟人気をみて育ったわたしは、高校から大学にかけて総合雑誌や書物で知識人の論説を読むたびに、そこで書かれていることと、昤吉の応援に駆けつけるあの町民たちの感情との距離がしこりとなって残りつづけた。

戦後の論壇(左派・リベラル)知識人と非論壇(右派・保守)知識人や庶民感情との食い違いといえば、「悔恨共同体」にしてからがそうである。悔恨共同体は、丸山眞男の造語で、敗戦後、知識人の間に、戦争を食い止められなかった自責感と知識人として将来の日本を新しくつくっていかなければならない、として形成された「感情共同体」(「近代日本の知識人」『後衛の位置から』未來社、一九八二年)をいう。たしかに、戦後、知識人の間にそういう感情共同体が形成されたことは事実であろう。しかし、左派あるいはリベラル知識人であれば、右派知識人や保守知識人があるのと対応して、もうひとつの悔恨共同体があったことは否めない。

丸山のいう悔恨共同体は「二度と過ちをくりかえすまい」という感情共同体であるが、もうひとつの悔恨共同体の極は、ペリー来航から切歯扼腕した日本がついに敗戦になってしまうことから、「こんどこそはうまくやろう」というもうひとつの悔恨共同体である(神島二郎「社会党は幻だった 中」『東京新聞』一九九六年三月六日)。あるいは勝者による一方的裁きである東京裁判を呑まざるを得なかったという「無念共同体」である。このもうひとつの悔恨共同体や無念共同体は戦後の保守政治家や保守知識人を中心にした感情共同体であった。丸山の「超国家主義の論理と心理」にはじまる論稿が「二度と過ちをくりかえすまい」悔恨共同体のバイブルだったとすれば、林房雄(一九〇三~七五)の『大東亜戦争肯定論』(一九六四年)はもうひとつの悔恨共同体や無念共同体の感情をその極北で掬いあげたものである。

ところが、総合雑誌に代表されるような戦後思想のメジャーな言説空間では、ここでいうもうひとつの悔恨共同体や無念共同体感情が内在的に掬いあげられることはほとんどなかった。右翼運動は反革命か擬似革命とされ、そのような運動に走った知識人は亜インテリであり、そのような運動へのシンパ感情をもった庶民は愚劣で騙された存在とされることが多かった。

竹内好(一九一〇~七七)や橋川文三(一九二二~八三)らを例外として、北一輝を英雄とするような庶民感情やもうひとつの悔恨共同体や無念共同体は、侮蔑か罵倒のレッテルが貼られ、まともな論説の対象にはならなかった。戦後のメジャーな論壇で封印され、周辺に追いやられたこうした感情共同体の淵源である右翼思想やそれと通底する大衆のエートスに深く踏みこみ、掘り起こしをおこなってきたのが本書(『日本の失敗』)の著者松本健一である。竹内好(戦前派)と橋川文三(戦中派)の系譜につらなる戦後派の傑出した思想史家であり、文芸評論家である。

松本は本書でこういっている。戦後、日本人はマルクス主義的な唯物史観の影響で、共産主義を革命ととらえ、ファシズムを反革命と規定してきた。しかし、「共産主義=革命というテーゼが成り立つとするなら、ファシズム=革命というテーゼも成り立ってしかるべきではないか」、それが自分(松本)の北一輝研究の初発の動機である(一〇〇頁)、と。

頭山満(とうやまみつる)(一八五五〜一九四四)や宮崎滔天(一八七〇~一九二二)、満川亀太郎(みつかわかめたろう)(一八八八~一九三六)から、ほとんどの人々にとってはその存在もわからない伊奈野文次郎や小川久蔵、吉田正春などの在野思想家まで、思想の生成と実践の現場を歩き、人脈や思想系譜に目配りしながらその思想を掘り起こしてきた。松本のこうした掘り起こしの情熱は、右翼思想家や在野思想家の思想が大衆のエートスと深いところでつながっているという確信からだったとおもわれる。さらに、在野思想や在野の思想家の生き方に権力を相対化し、知識人の自己否定につながる契機が孕まれている(『在野の精神』現代書館、一九七九年)と考えたからである。こうした作業をしてきたからこそ、襞にふれ、奥行きの深い立体的近代日本史が松本によってつぎつぎと書かれることになったのである。

本書は、冷戦構造がおわった一九九〇年代から現在までを第三の開国ととらえる松本史観の上に展開されている。開国とは国内ルールにしたがっていればよかった日本人がそれとは原理を異にする国際社会のルールの世界に引き出される未曾有の経験を意味するが、その最初の経験が幕末維新期の第一の開国であり、大東亜戦争前後が第二の開国であったと松本はいう。

本書でも詳しくふれられているように、開国という歴史の切り口そのものは、丸山眞男の論文「開国」(『講座 現代倫理』第十一巻、筑摩書房、一九五九年)を踏襲している。しかし、丸山においては第一の開国は、室町時代末期から戦国時代であり、第二の開国が幕末から明治、第三の開国が一九四五年八月十五日あたりからとされていて、松本の開国コンセプトをめぐる時期区分とは、ずれている。とくに丸山の第一の開国(室町時代末期から戦国時代)説については、この時期のスペインやポルトガルがとりあえずは、二国間貿易をもとめていたにすぎないから、「国際社会」が「一体として外から迫って来た」という丸山自身の定義からも「開国」とするのは妥当な歴史認識とはいいがたいとされている(三五五~三五六頁)。開国の時期区分については、松本説のほうが説得的であろう。

邪推めいた余談ではあるが、丸山が室町・戦国期に第一の開国を措定したことにはつぎのような事情もあったのではないだろうか。戦後すぐに丸山の父幹治が第二の開国を暗示するような「第二維新」(『現代』一九四六年一月号)という論文を書いていた。といっても丸山幹治には丸山眞男のようにベルグソンやポパー(一九〇二~九四)らの開いた社会や閉じた社会からアイデアを汲み取るという歴史抽象モデルの発想はまったくないのだが、にもかかわらず、丸山眞男が幕末を第一の開国としてしまえば、敗戦を第二の維新(開国)とする幹治のネーミングとつながってしまう。大宅壮一(一九〇〇~七〇)による「類似インテリ」(「「類似インテリ」の氾濫」『中央公論』一九三七年三月号)におそらく触発されたであろうコンセプトを「亜インテリ」としたように、丸山眞男の室町末期から戦国期=第一の開国説にはそんな学問外事情もあったかもしれない……。

それはともかく、松本のいう第一の開国(幕末維新)論は、すでに『開国のかたち』(毎日新聞社、一九九四年)や『開国・維新』(中央公論社、一九九八年)にまとめられており、本書では第二の開国(大東亜戦争前後)が扱われている。

松本はこの第二の開国の発端を第一次世界大戦がはじまり青島(チンタオ)を占領するとすぐに出された大隈内閣の「対支二十一ヵ条の要求」(一九一五年)にみる。「対支二十一ヵ条の要求」は、領土を拡大し、資源を獲得しようとする日本の中国に対する権益要求である。この要求には、日本がアジアを植民地化することと、英・仏・米・蘭などの先進列強から植民地を奪うという二つの契機が重なっており、のちの大東亜戦争の二重性につながるからである。「対支二十一ヵ条の要求」は、後から中国に進出したアメリカの反撥をかい一部削除を余儀なくされる。しかし武力に劣る中国は、一部削除という帝国主義国間の妥協にもとづく日本の要求を丸呑みせざるを得ず、「打倒日本帝国主義」のナショナリズムの火をつけることになる。

テリトリーゲームをめぐる帝国主義国間の軋轢(あつれき)や中国のナショナリズムの擡頭(たいとう)に呼応して、北一輝の『日本改造法案大綱』をはじめとして、さまざまな思想がたちあがり、対外政策が入り乱れる。しかし、第二の開国は、幕末の第一の開国からくらべると、国際的な衝撃を受けて、思想的にも政策的にも「内からの変革」をする力が弱かった。かくして第二の開国は、もっぱら外の力によっておこなわれたが、そのことでアメリカ民主主義への同化力を強くし、ナショナル・アイデンティティを喪失させ、「自己懐疑なき繁栄」を生んだ。このように松本はいう。

このような論述のなかで、南京虐殺事件が日清、日露戦争ではみられない「生きて虜囚の辱めを受けず」(「戦陣訓」)の思想によるものであることや戦後日本国憲法が一九二八年の不戦条約(「戦争放棄二関スル条約」)をもとにしてできていること、西田哲学は日本=皇室を世界化したのだから大東亜戦争のためのもっとも高度な国体イデオロギーだったことなどについて、行き届いた説明がなされている。そのくだりを読めば、南京虐殺の被害者人数の多寡を論争することだけでは、事の本質とは逸れること、また憲法九条の戦争放棄をもっぱら日本人のこのたびの戦争への反省がもたらしたものであるかのようにいう巷説が歴史的経緯の無知のなせる業であることがわかる。こうした第二の開国の失敗は、第三の開国の今の大きな教訓である。

はじめにふれたように、松本は右翼思想や草莽の思想の掘り起こし作業を精力的におこなってきたこともあって、あるときは、右翼のレッテルを貼られ、あるときは、逆に一部右翼によって脅迫まがいの糾弾も受けた。

わたしが、松本に驚嘆するのは、このようなバッシングや脅迫にあっても筆を折らなかったというようなことではない。レッテル貼りのバッシング包囲を受けて、意固地な反左翼主義者や反右翼主義者になり、論述のバランスを崩した思想家は多い。ところが、松本の書くものにはそうした乱れがないことに驚く。なまなかのものではない。そんな松本の心意気を知るひとつの逸話にふれて筆を擱(お)きたい。

ある評論家からこういわれたというのである。松本は日本浪漫派や北一輝などについて内在的にアプローチしているが、ミイラとりがミイラになる危険がある、と。

それに対して松本はこう答えている。(松本への)批判者は、他者の言論や精神を、マルクス主義などの外にある他の思想によって批判する、外在的批評を旨としている、だから批判者自身はすこしも傷をおわない。そして、松本はこうしめくくっているのである。

「そういった(ミイラとりがミイラになる――引用者)危険性をおかさずにすむ思想史や文芸批評なんて、いったい何だというのだろう」(『右翼・ナショナリズム伝説』河出書房新社、一九九五年、一一九頁)
日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」 / 松本 健一
日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」
  • 著者:松本 健一
  • 出版社:岩波書店
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